
2月通信・新春に思う
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新春 明けましたが 2月通信つづき 1995.2.3 YUKI.I
驚天動地 悲しみ地に溢れる
●「始まりへの胎動」
皆様、いよいよ21世紀にむかって「始まりへの胎動」ともいえる時がきました。
地球の地軸のずれも序々に進んできています。
日本各地での地震を始め、地球のあちこちで、ひんぱんに異常気象がおこっています。
日本の温暖化、西洋の寒冷化など、こうしているうちにもヨーロッパの水害も阪神大震災
と同様の避難者数を数え、損害も出しています。
いよいよ1996年1月31日の旧正月を迎え、名実ともに新年となりましたが、この混乱の中、いよいよ世直し、よみがえりの年の幕開けとなりました。
“心の岩戸が開けましておめでとうございます” といいたいところですが、この震災後の混乱の中では、そうもいっておれません。
しかし、みなで21世紀に喜びあえますよう、今年は「正がでるか邪がでるか」の正念場の年になることと思い、互いに心していきたいものと思われます。
●日々新たなり
今年は木性 “気” の年、 “心” や “意識” に気の向く年となります。 今年は、意識の目覚めの年となりましょう。正義や義侠心の働く年でもあります。 よい働きをして明るく開かれた21世紀を楽しみたいと思われます。
一人でも多くの方が、正しく清らかで明るい意識の目覚めに気づいていただきたいものと切に願っています。 自分の意識が変わるだけで、周囲の人の意識も一瞬にして変わります。
それはみごとなまでに、見える世界も一変し、心持ちも変革され、軽く明るく楽しくなれるのです。日々新たなり、日々成長してこそ人間です。それも人と人との関わりの中で成長できます。
昨日の私は今日の私ではないのです。本年は相変わりましてこそ、お目出たい年となることを申しあげておきましょう。
●物事が皆それ相応に正しく位置づけされる年
今年は五黄の乙亥です。今年は全ての宮が本来の位置を得て、それぞれの本分にきづかせていただく年となっています。 それだけに、気づきに応じて、良くも悪くも正しく報われる年となると思われます。
たとえば阪神大震災も、目覚めと気づきのための大きな試練でした。多くの亡くなられた方々のお陰で、残ったものにとっては、その悲しみと苦しみの中から真実大切なものに気づかせていただけるのです。大きな苦しみこそ、大きな気づきに出会えるともいえるのかもしれません。
又、それなりの役割を持たされている方は、あの惨状の中でも不思議とすばらしいお陰をいただき、命の助かる状況へと導びかれたようにも思われる話も多々伺いました。
不思議とも奇跡ともいえることも多かったように思われることです。
●人類への警鐘 自然への畏敬の念を・・・
一人一人がより高い気づきへと成長してゆく目覚めの時が今きています。今年、五黄が表なら裏は六甲です。 目覚めは六甲から始まります。「地震・雷・火事・親父」も相応にかつてのそれらへの畏敬の念を、皆が再び思い出してくれることを願っているのかもしれません。
今回の大震災も、人間の科学文明へのおごりを諌め、自然への畏敬、人間本来の目的、宇宙意識への気づき、愛にみたされた心への気づきを促していると思われるのです。
今回の地震、私のいうところの神の戸の岩戸開きは、神戸から始まり日本へ世界へと波及してゆくのでしょうか。
●何が大切か
神戸の復興に関して核芯への気づきのないままに、これまでと同じ次元での経済効果をねらったり、強さをほこり、号令一下で、見た目も競うというようなハードの発想でなされるとしたら 数年後には、又違ったソフトの形での大きな揺さぶりをかけられ、もっと思いしらされることとなるのではと私には,思われます。
実際、現在神戸市の各所での未来設計図がひかれ、町並や色まできめられてきているそうです。
待って!と私はいいたいのです。 この不況を活性化できるチャンスとばかりに金時計をはめた親方日の丸の議員達が、よだれたらたらで利権をあさろうとしています!
これまでと同じ状況、議員たちのエゴで再建がなされるなら5千人もの死者の魂は浮かばれません。 それらの尊い犠牲の教えてくれたもの、それを受け取った人たちがもっとすりあわせて吟味してゆく時間が必要ではないでしょうか。
地震当日の朝一番も支援どころか、株式市場で大林組、青木建設・・・関西の建設関係の株の買い注文が殺到し、大幅に値をあげました。
ここにむらがった人たちは、その利益を震災のために少しでも還元しようという気はおありになるでしょうか。 たとえ一部でも差し出しましょうとでもいう気になってくださらねば早晩整理される側となりましょう。
●ボランティア
私のところにも、登校拒否のフリースクールの小・中学生たちが、支援を申し出てきています。
そして、うちの子たちも全員早くからボランティアに出て手伝っていました。又子供の同級生たちもボランティアにいったりしています。
ところが、ティッシュを配ったり、弁当をくばったり、いえば、今では避難者たちが、自分達でできることにボランティアの手をわずらわしている状況です。
当初生き生きと目を輝かして、人間勉強だといっておもしろがってた?子供たちも、たいくつだし、あき時間にボヤッとしてるのもいやだからといってボランティイアをやめてしまいました。
ところが、郵便局では、救援物資が山積みで放ったらかしなのです。遠方からの貴重な一人一人の思いやりを無にして、さらなる救援をテレビでもおことわり申し上げるているという状況なのです。
今朝は対策本部と連絡をとり救援物資の仕分けや配送のボランティアなどのきめこまかいケアについてきかねばなりません。
●強者の論理は捨てて・・
これまでの文明が、後始末や細かいケアを考えないまま、弱者を切り捨てて、思いやりのないままにつきすすんできたので、この天災でこの始末だと思われるのです。
強者の論理とおカミ意識が、この震災での救援活動のたちおくれと救援活動内容のピンボケをうみだしていると思われます。
宝塚の知人も自治会館を救援用に利用と思って言ったところ、そっくりかえった会長さんは、ちっとも考える気がなくて、義援金もコープの貯金箱へどうぞといわれたそうです。
どこに具体的に救援活動の手助けができるのか、誰も指揮する人がいないといって、市長に直訴の葉書を書いたそうです。
救援の為の会議も現実のボランティアのスタッフである女性はいれてもらえないとかいう事実もあります。
やはり男性論理、強者の論理、レッテル意識で救援がすすめられているらしいことは、大変に残念なことです。救援物資の下着も男性用は沢山あっても、なぜか女性用の下着は私のみた時はいつもありませんでした。
私が、いつも口すっぱく言っていることですが、行政は公僕です。きめこまやかな一人一人に喜んでいただける対応をして頂きたいものです。
困った時には十分力になり、市民一人一人の気持ちを汲み取れるくらいの暖かい思いやりの対応が、今こそ求められている時と思われます。
今回難を逃れた方々もこの震災から十分に学び気づくことがなかったなら、次はご自分たちの番だと思っておられてていいんじゃないでしょうか。
●助けあい分かちあう
天変地異や非常時にこそ、本質や実力が分かります。
今回世界からも驚嘆されていることは、日本人の落ち着いた平常心であり、助けあい分かちあう精神の発露でした。
そのような日本人の根っこともいえる面を、かいま見れたことは、大変重要なことだと思われます。
外国でなら暴動もパニックもおこって不思議でない状況の中で、皆が互いの生命を救いあい、助けあって被災者どうしで懸命な救出作業をしました。
水も食料もないところで、一つのおむすびを分けあい、助かった人はボランティアで奉仕し、互いに不自由も分けあって共に生きるという心の芯のパイプがすぐにつながりました。
これは気づきのひとつだと思われます。
●日本の心をとり戻した 日本人
テレビのインタビューで一人の老人が「日本人のもともと持っていた心をとり戻した」と感想を述べていました。
まさにこの震災の危機的状況の中で、これまで、浮かれておごっていた日本人が再び暖かい思いやりの心つながりをとり戻したことにきづかれたのです。
このような、極限状況で、人は、生命の大事さ、そして人間として生きるということは何かという深い所に直面させられたのではないでしょうか。
●形骸化した官僚機構の中の 心を失った人たち
又この震災では、全く悪い意味での「あいまいな日本人」がすっかり露呈されました。
それは、この非常時の国会でもグダグダいわれている行政の対応のまずさの点です。
同じ行政と立法に携わるものが、この非常時に言いあい、責めあい、足のひっぱりあいをしています。
議員は皆テントに寝て、冷たいおにぎり一つのなかで、震災を体感してそこで、生の声を聞きながら話し合いをすべきです。
あさっての所でぬくぬくといて、頭と言葉だけのラリーをしてもみのある政治はできないと思われます。
●緊急時の対応不能
官僚機構という、個人が何もきめられないシステムと何よりそのなかの人の人間としての判断力のなさがみごとに浮かび上がりました。
なにより人命第一の鉄則がシステムという構造の下に切り捨てられました。
日常、そのシステムの中で自己保身をしている内に、何が大切か、何が大事かをを見失ってしまった官僚人間とその機構の形骸化が、対応のまずさや遅れとなって、この緊急時に致命的な欠陥となってあらわれたのです。
これをみても核芯(確信)を持たない、自信も自覚もない現代の日本人のうろたえる様子が伺えます。
又人間として日本人としてのアイデンティティーのなさ、自信のなさが、実行力の欠如として、この大震災での対応のまずさとして暴露されたのです。
システムだけ、ハードだけをかえても同じことです。もっとその奥に潜む人間としての本心のあり方を問わねばなわないでしょう。
●意識下の心
私は、今回の地震は、日本人のアイデンィティーに再び目覚めさせていただいたと思うのです。
そして、それを精神的拠り所として自覚と自信を持って行動できるようになるようにと促されているように私には思われました。
私の思う日本人のアイデンティティーとはなにかというと、外国人からみた日本人のあいまいさといえるものが、そうではないかと思われます。
しかし、現代の日本人自身はそれらをほとんど忘れかけており、意識下の領域となってしまい、自分でも気づいていないようでした。
その私のいう日本人のあいまいさとは、
一言でいうと、森と水とともにある湿潤な自然とともにあるというもののあはれをしる心、花の声、虫の声、木の声がきけるやさしい穏やかな心です。
又、あるがままを受け入れる、全てを尊び、受容する清濁あわせのむ意識、そして、見えない宇宙の響きや働きを感じれとれる感性、だと私はおもうのです。
その日本人としての意識のあり様の大切さを、今回の地震から、気付かせていただいたのではないでしょうか。
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