ゆきちゃんの世界
  * * * 阪神淡路大震災ボランティア * * *
2月通信・新春に思う

阪神・淡路大震災報告第2弾  3月通信   1995 3.12 YUKI.I
                                
被災地の現場から テレビに映らなかった現実

■遺体が地に並ぶ

 この阪神大震災で5500人に近い方々が亡くなられました。

 各避難所は、緊急の遺体安置所となりました。地震の直後、東灘区では、多くの遺体が2号線の中央分離帯に次々と並べられていたそうです。

 周囲に黒煙があがり、ビルは傾き、家々の倒壊した惨状の中で、ずらっとならべられた死体は地獄絵ともいうべき悲惨な光景だったそうです。
 
 テレビにはいつもうつってた住吉川の東岸の、4階が潰れた公団のすぐ東隣のコープ神戸生活文化センターの広場も一時遺体が並び、体育館の避難者たちは移動させられて二百五十体もの緊急遺体安置所になったそうです。
 
 向かいの灘高の体育館も当初二百数十体の遺体安置所になっていました。        

■あの芦屋がゴーストタウン
 
 地震後6日めの1月23日の月曜に、仕事に行く夫を阪急西宮北口まで車で送りました。

まだ、電車は阪急西宮北口までしかきていなかった時です。(夫は以来3月の今もって大阪のホテル暮らしです)その日は朝の5時半に六甲を出発しました。

 東灘から2号線に入り、芦屋市を走る間ずうっとまっ暗のままでした。まだ停電していたので、信号ひとつないままの2号線、周囲も崩れた建物もまっ暗のままでまさにゴーストタウンそのものでした。

 ヘッドライトにうつしだされる広い道路の両脇は、全て1階だったかしらと錯覚するほどに崩れ落ちていて、道にまで崩れた家がせり出しており、ビルは倒れかかり、電柱は傾いて切れた線がぶらさがり、まさに不気味な廃墟の町と化していました。 

■生き埋めになった方
 
 その帰りに、私が大学以来お世話になっていた調律師さんが東灘区の魚崎小学校に避難されているのをきいてたので訪ねました。

 彼の東灘区の家も全壊になりました。奥さんと娘さん二人は二階で助かりました。
しかし、彼は1階がつぶれてしまって生き埋めになったそうです。
 
 しかし、運のいいことに丁度ピアノの側にいた時だったので、ピアノの蔭で生きながらえていて、近所の方のお蔭で傷一つなく掘り出されたそうです。

 地震の起きるのが5秒でも違っていたらとても助かっていなかったといってました。

 ピアノが長年の恩返しをしてくれたのねと喜びあいました。

■人力だけの救助活動
  
 東灘の市場も、軒並つぶれました。

 トラックを持っている八百屋のおじさんが言われるのには、2・3人の若い者がきて、梁ではさまれている青年を助けたいから、トラックについている少しでも大きいジャッキを貸してくれといわれて貸したそうですが、とてもあんなもので家の重み、梁の重みなんかあがるものじゃないし、助からなかったろうなと嘆息しておられました。
 
 その方もご自分の家族が大丈夫だったので、次々に近所の人達を助けに走ったそうです。

声のしていた二階の屋根をのこぎりやかなづちで必死であけて「坊主まっとれよ」と声をかけながら、ようやくタンスにはさまった男の子を助けだして抱き抱えた時には、既に硬直がはじまっていたそうです。かわいい子だったそうです。

■お棺づくりにおわれて  

 灘区役所の福祉のケースワーカーの人達も、本来の仕事の一人暮らしや体の不自由な方々の安否を気遣うどころでなく、当初一週間は実は職員総出で、お棺づくりと一部事務処理におわれていたそうです。

 ひとつのお棺に百本もの釘を丁寧に打って作る女子職員、たった4本しかうってなくて、遺体を運びだす時に遺体ごと中に収めた品々も全部ぬけてばらばらになったという、とても笑えないひどい話も現実にありました。
                 
■生と死が隣り合わせ

 避難所では、生きてる者と死んだ者がいっしょでした。お棺もないので毛布でくるむのがせいいっぱいで、遺体を次々と確認するのがやっとだったようです。

 そうしているうちにも生き埋めになった方々はもはや重機がこないと、とても人力では掘り出せない状況で、2日すぎ、3日すぎていきました。

 どんなに多くの方々が無念の涙のうちに、暗い中で救出を待ちながら、辛い苦しい痛い思いの中で、次々と埋まったまま亡くなられていかれたことでしょうか。

 マスコミに4日めで無事だったという救出劇などが放映されました。

しかし、そこには″4日もたってやっと大型重機がやってきて、それもごく一部だけで、ようやく救い出せる態勢がとれた″という事実があるのです。
 
 市はすぐさま三の宮の崩れたビルをこわしていたその重機を一人でも多くの方を救出するために真っ先にさしむけるよう、緊急命令を出すぐらいの思いやりはなかったのでしょうか。
 
 どれほと゜多くの方々が、崩れた梁をうごかせないばかりにいのちを落としていかれたことでしょうか。 それを見ていた肉親の涙をなんと心得ておられたのでしょうか。

 ここに価値観の相違による判断の違いが出てくるのだと、私には無念に思われたことです。                 

■判断のにぶさが救出を遅らす

 当初からレッカー車を始め、様々の大型機械が市民の生命を救うために各所に沢山入っていたなら、もっとあちこちで喜びの救出劇があったことでしょう。
 
 重機を用いて上手に救出し、交通規制もきびしく救急車を動きやすくし、

 渡る橋がひびだらけで行けないポートアイランドの神戸市民総合病院もはしけを出しての早急な利用を可能にし、

 各病院に多量の水の搬入をし、発電機の設置をし、自衛隊の救命救急諸設備の利用、
医師の配分などが徹底していたなら死者の数はもっと減っただろうにと思われます。
 
 今埋まって助けを求めている人、重症で、助けを必要としている人、そういう方々のためににどんどんヘリコプタ−を飛ばせるべきでした
 
 何が大切か。何が優先順位なのか!   お棺をはこぶより、一人でも多くの方々を、一刻も早く、どのような方法で救いだすのがよいのか、そこにもっと目と知恵と科学力の総力の結集ができなかったのでしょうか。

 目にみえるハードを使いこなすのは、人手であり、それを動かすのはソフトである判断なの
です。しかし、その判断も価値観によって大きく違ってくるのです。 
 
 地震発生後、報道のヘリコプタ−が沢山とびかって風と火をあおり、その爆音は、埋もれてい
る人たちのかすかな助けを求める声さえかき消してしまう暴挙でした。
 
 なんど救出に必死の人たちが、空を飛びかう岡目八目のヘリコプタ−に怒りのこぶしをふり
あげたことでしょうか。

■ヘルパーさんも寝る間もなく
 
 区の福祉の方々がお棺づくりに追われている間も、区のヘルパーの方は孤軍奮闘で、区役所も全くあてにならず、担当かどうかにかかわらず体の不自由な方々のお世話に追われていました。
 
 清拭のお湯をもらおうにも、あんた一人だけにあげるわけにいかないと言われて怒り、大人のおむつひとつ手に入らない状況でした。

  灘区篠原のヘルパ−のAさんは、すぐに仙台の兄弟にたのんで、至急区宛に600枚も送らせたそうです。

 大人のおむつに加えて、仙台の老人ホームの方々は、しびんや吸呑み、ウエットティシュ、老人用のよだれかけ、下を洗うための使い捨て手袋、水のいらないシャンプー等々、ホームの皆さんが個人でいろいろとご寄付下さったそうです。
 
 その荷物が着いたはずだと聞いてもわからないから自分で捜せといわれて、歯噛みしたそうです。

 でも、その荷物のおかげで、どんなに助かって切り抜けれたか仙台の方々に大変感謝なさっていました。 

 老人も多く二千人近くが避難しているその小学校では、焚きだしの申し出がきても皆にいきわたらないからという理由で、断ってばかりいたそうです。
 

 せめてお年寄りや子供にでも暖かいものをという発想はなかったのでしょうか。

ようやく暖かいものが食べれたのは2週間もたってからで、それも姫路のテキ屋さんの炊きだしだったそうです。 

 区が何もしてくれない時に暴力団のY組さんの救援物資のおかげでどれだけ助かったことか、こんな時こそ本当の人間性があらわれますね。人間差別しちゃいけませんねとそのヘルパーさんはおっしゃっていました・・・。                             

■町かどのあちこちに避難者が
 
 避難所のテレビ中継もいいとこばかり映してると、被災者たちは、マスコミの勝手さを怒っていましたよ。
 
 実際、私の隣のマンションの方たちは、壁がひびだらけになり、古い建物で7階だてなので、余震も多く怖いので、全員がマンションを出て避難されました。 

 沢山の方たちが当夜からずっと車の中で過ごされました。駐車場で火を焚いて暖をとり、とうとう3日めからは近所の空家に入ってすごしておられました。 

 私も翌朝一番からずっとすしおけの大きなのにいっぱいあつあつのおにぎりを毎食焚きだして、熱いお茶も一緒にお菓子なども持って3日間せっせと運びつづけました。

 お米は30k袋で何体もしっかりストックしていましたので、心配ありませんでした。             

■マスコミは対外向けのみ
 
 大騒ぎのマスコミの放送は被災地住民のニーズに答えるものではありませんでした。

区だけでないあちこちに聞きたいこと、言いたいことがあっても、104で教えてくれる番号は災害対策本部の番号ひとつだけ、おかしくて笑っちゃいました。又それが、ずうっと話中なんです。
 
 安否情報には受け付けの電話番号も出てないし連絡先もわからない。

電話帳はがれきの下の人がほとんどなのに、どうやってどこに連絡しろというのでしょう。

 携帯電話を持っている人はまだすくなかったですし、充電もできません。

どこでどんな対応をしてるのか、公報車もでないし、確かな身近な情報はほとんど分かりませんでした。

 テレビにしても、火災や被災地の心配な地域をそれこそ、望遠ででも、ゆっくりじっくり映していってくれないものかと、知人の家を捜して画面をくいいるようにみましたが、とてもみつかりません。
 
 被災地情報、何市の何区、何町として、その街の様子をじゅんじ、とらえて、つたえてゆく、そういうきめ細かな情報が求められていたと思います。 

それが、さっぱりわからないものですから、被災地の住民を心配する人が大挙しかけて、救急車も走れない状況になったのです。 

それは、一週間たった時点でも同様でしたよ。 

 又、テレビでの話や解説となると、これまたずらっと男性ばかりならんでました!

 誰でもいいから女性をいれてほしかったですね。 

だって、女性は男性みたいな建前ばかりでしゃべらないですからね。

体でもって、何より生命を大事に考えれますからね。 それに、そんな時でも、いのちあずかって、食べる心配、日常のことなどこまごまとしているのですからね。

■トンネルをぬけるとそこは別世界だった
 
 六甲道では4階建てのコープも潰れ、翌日開いたミニコープにも品物はほとんどなく、ローソンも当日から後4〜5日は閉めてたり、売ってくれる品物もありません。

 下のダイエーも翌日から開けていても買い物をするのにビルをひとめぐりするほど待って整理券をもらってようやく買い物ができる状況でした。
 
 ただうちは、お米は自然農法産のものを一年分をまとめて買って家に積んでいたし、乾麺や粉など食糧の備蓄もあるので、焚きだしのお米の心配も食料を買いに並ぶことも全くいりませんでした。

水も井戸水なのでライフラインは当初からなんの心配もありませんでした。

 そして、表六甲では野菜が手に入りにくいので、3日めに六甲山の裏手の北区の淡河町の知り合いのお百姓さんのところへ野菜をとりに行きました。
 
 すると六甲のトンネルを二つぬけて北側に出るとそこは、全く別世界でした。

表の六甲のすさまじい混乱などどこふく風で、スーパーには物があふれています。

地震前と何のかわりもありません。幸いお金も何時になく十分に持っていたので、買い物も
たっぷりして、野菜も卵も食糧も十分に手に入れて、表六甲にもどってきました。
 
 そして、知り合いや会員さんに野菜や卵やポリタンクの水をわけてまわりました。 

ポリタンクも畑用にしていた水のタンクがたくさんあったので、水を不自由している街の会員さんに、水を持ってったり、ポリタンクを貸してあげたりしました。

■小さな避難所では
 
 そして、4日めには、隣のマンションの方々もそれぞれ行くところをきめて、序々に散っていかれました。

 そこで、今度は子供の小学校の避難所へ味噌汁や熱いお茶を毎日せっせと運びました。
うちのひまな子たちもクッキーをやいたり、ゆで卵を作って手伝ってくれます。
 
 お百姓さんところでもらった鶏さん用の炭酸せんべいのかけもビニール袋にいれると、すてきなお菓子になって大好評でしした。
大きなダンボール箱いっぱいがあっというまにからっぽになっていました。
 
 2週目の終わりの頃には、お好み焼きやぜんざいなど持っていきました。これは、山のすぐ下の会員さんの井上さんがお譲さんと手伝ってくださいました。

 先生方も学校に泊り込みで、庭にトイレの穴を掘ったり、避難者の方々の世話をしておられます。 
 お年をめされた校長先生も毎日遠くから2時間以上も歩いて通われて学校の近隣の方たちの水のお世話までしておられました。

■つらい現実
 
 学校に電気がくるようになったとテレビでは明るくなった避難所を映して喜んでいます。

 でも、じつは被災者の方たちは明かり以外は使えないのです。
 
 皆が使うと容量をオーバーするからと寒いままで、お年寄りもこたつひとつ使えずお湯もわかせず、カセットコンロも火事になるからと使わせてもらえないのです。
 
 食事も冷たいものばかりなのに、暖める電子レンジひとつ置かせてもらえないのです。

 これを書いている3月6日の現在でも避難所のご老人の方々は夜は湯タンポで暖をとっておられます。 

 大きいところは、それぞれに焚きだしもはいったりしていますが、うちの小学校のような小さな避難所の焚きだしは、私以外になかったようです。
 
 その避難者の方々も当初入った体育館も老朽化で崩れそうだからと教室に分散していました。

 神戸市の小学校が始まったと報道された2月13日も校庭の石垣のくずれの補修もまだで、被災者の方々も教室にいらして、落ちかけた渡り廊下もそのままで、とても始まりませんでした。  
                              
■学校もまだまだ
 
 次男の公立の中学校もはじまったとはいえ、3月に入った今でも弁当なしの昼までの3時間だけです。

 仮設教室の週3日の所もあります。長女の西宮の私学も校舎の半分が潰れ、2月は週2日の2時間、今でも高等部と中学部の交替の隔日で3時間授業で、来れない人はプリント提出です。

学校にいくまでに御影まで4・50分歩いて、その上いくつもの電車を乗り継がねばならない長女は学校はプリントにしています。
 
 そして私と一緒に避難所をまわって、一人暮らしの老人の手助けや中高年の心のケアで、いろいろ話の聞き役をする区のボランティアをしています。

 長男の私学はうちのすぐ下で学舎が大丈夫だったので、日に4時間の授業ができています。

公立の小学校も合同クラスで昼までの3時間と冷たい給食で午後にはすぐ帰ってきているそう
です。

 ただうちの小学生の娘は、青森に避難留学しています。 彼女がいないので、私もこころおきなく、ボランティアができるのです。

 ■避難留学も多勢
 
 うちの小学生の次女は、実は今青森市に避難留学をしています。

 地震の怖さをほとんど気づかなかった娘は、全く怖がりもせず、当初は兄や姉たちと留守番していました。

 上の子たちが時々学校に行きだすとほとんど私について、町のあちこちの知り合いの地震後のひっこしの手伝いをしたり、がれきの中から少しでも持ち出そうとする手伝い等をいろいろしていました。
 
 しかし、そうそう日々の生活を勉強もせず放っておくわけにはいかないと思い、玄米菜食のネットワークに訪ねてみました。

 すると何人もの方から申し出があり、本人のスキーができるところという希望で、青森市の佐藤好文さんのお宅にお世話になることにしました。

 青森の小学校は、何もいらないよとなんとランドセルから教科書も全て用意してくださっていました。
 
 本当に有り難いことと、その暖かさが有り難く身にしみてうれしく、まだお会いしたことのない青森の方々や佐藤さんご一家に心から感謝しております。

 今では本人もすっかり青森になじんで、スキーも滑れるようになったと、とても喜んでいます。

■涙がとまらない 悲しみ あふれる

2月 15日
 小学校のまだはじまらない娘を、青森に避難留学へと旅立つ日、関西空港まで送っていった。 
六甲から車で出て、勝手知ったる裏道(2号線は交通規制)を走り、30分程で住吉に着いた。

 JR住吉駅(電車はまだここまで六甲は一番後になった)のそばのMさんの元のマンションの駐車場に 管理人さんのご好意でとめてさせていただけた。有り難いこと!

 そして、駅に行く途中の保育園、ここは以前 Mさんの マンションのかたづけの手伝いをしていて、炊きだしを頂いたところだ。 

 保育園を抜ける時「お弁当余ってるからいるだけ持ってって」といわれ、有り難く、弁当2こ、みかん3こ、はっさく一つと飲み物を2ついただいた 

 そして、JR住吉の駅前にくると、仮設トイレが並び、駅員さんが、戸をあけて順番に消毒しトイレ掃除をしていた。

駅前のビルは無残に傾き、大型の機械が、駅の高架をくだいている。
 
 電車に乗って、小さい体に大きなリュック、バイオリン片手の娘と、軽いけれど、おおきなリュックと大きなかばんを持ったジ−パンにジャンバ−の私は、まさに避難民スタイル。

 ところが、向かいに座ったおばさま方は、まっかなコートのはではでキラキラ、周囲の人もあたりまえのコートにスーツのいでたち。私たちの違和感はまさにありありと・・・・・

 久しぶりに乗る電車の窓から崩れた家々が次々にみえます。

見ているうちに涙があふれてきてとまりません。「苦しいよう、痛いよう、助けて・・・もっと生きたかった・・・おかあさん、助けて、助けて・・・」亡くなられた方々のうめきや思いが波となってウォーンと体中に響いてくるようです・・・。

 ベシャベシャにつぶれた家々をみるうちに、そんな悲しみが、ジンジンと伝わってきて、私の目からはぬぐってもぬぐっても涙がどんどんあふれるてきます。
 
 たちまち目は真っ赤になって・・・、あっ、避難民してるなと自分でも思っちゃうのだけど、どうにも涙はとまらず、ボロボロ、ボロボロ・・・。

 一見なんともなさそうに見える周囲の中で、まさに異様だし、やめようと思うのだけど、涙は・・・・とまらない・・・・苦しい、悲しい、くやしい、辛い、寒い、助けに来て!まだ、死にたくない!・・・ 何千人もの人が、うめいて、泣いて、どんなに辛い思いをして、亡くなっていかれたことか・・・!

 亡くなられた方々の魂は まだ、そこここにあるようにわたしには思われるのです。
 
  あっ! でも、やっと、ようやく、こんなに泣けた、こんなにも涙があふれで、こんなに辛さと悲しさをようやく感じれとれた、そんなほっとした思いがした。
 
 それまでは、現実のあまりの悲惨さに心が凍ってしまったかのように感じていたのが、ようやく心をとり戻せたという、そんな思いがした。 

 この一月間、呆然としていたんだなあ。 頭が真っ白で、ただ、日常のできることを必死でこなしていたんだなあと、つくづく思われたことでした。

そして、その日の午後、小学3年の娘は一人で青森に飛び立ちました。


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