ゆきちゃんの世界
  * * * 阪神淡路大震災ボランティア * * *
神戸市の復興への提言(1)

以下の文は、地震後すぐ、神戸市が復興への提言を求めたものに 提出しました。
テ−マは「自然と人と都市の理念について」 でした。 忙しいボランティアの最中でしたので、とてもだせるとはおもわなかったのですが、ぎりぎりに提出した覚えがあります。
テーマ自然と人と都市の理念について
 
                      1995.3 灘区篠原在住
 神戸市の復興への提言1        本物を感じる会主宰  YUKI.I

 ●提言  見えない核芯に気づく           
 
人を動かし、物を動かせるのは理念です。中身があってこそ、外にあらわれます。

 小さな氷山も見えるところはごくわずかですが、水面下のみえない大きな部分が、あるいは周囲の様々なみえない環境がそれを動かしているのです。 

 この地震でも、芯の入っているブロック塀はたおれませんでした。
コンクリ−トも中心に芯があってそれをかこむものとしっかりむすびついていれば、ああも簡単にねじれなかったのではないかと私には思われました。

 そのように芯となるみえない理念があってこそ、人は自ら主体性をもって動くことができ、自信をもって働けるとおもうのです。

 それでこそ、多くの人々を説得でき、協調もしてものごとを民主的にすすめてゆけると私は思っています。 ではこの震災後、神戸市の掲げた理念について、私の思う提言を示してみました。     
                                 
  ●  自然と人 そして都市
 
・バランスのよい発展を

 この度の神戸市復興計画のガイドラインが「都市・自然・人を基本理念に21世紀にむけた安全都市づくりを目標」とのことです。 
 
 しかし、その神戸市のいう都市の在り方と自然と人との三者の関係はどのようであるのか。 
その3つの関係性がバランスのとれたものになるためにも自然への重要性を理解してほしいと思われます。
                          
・木々の大切さ
 
 復興は都市の取り組みではありますが、先ず何よりも自然を念頭においていただきたいものと私は思っています。

  このたびの震災により、建物はつぎつぎと倒れましたが, 木々は、倒れてくる家屋をささえ、多くのいのちを救ったとおもわれます。

 木への感謝と災害時、木々のある空き地の必要性、これらのことから、緑を街の各所に配置することの重要性を改めて十二分にたいせつにとり組んでいただきたいと思います。 

・コミュニティ−

 次に考えて頂きたいのは、みえない人々の気持ちであり生活でありコミュニティーだと思います。 

 これからは既成のハード面優先でなく、まずどんなソフト面を考え、とりくみ対応していくか。

 人々の心や生活を生かすソフトのあり方を吟味し、その上でそれを生かすハードづくりへと取り組んでいって頂きたいと思うのです。 

 つまり、取り組み方を、ソフトのほうから考えていただきたいと思うわけです。それでこそ、人が生き生きと息づける街となると思うのです。                    
     
    ●  自然への畏敬                            
 
 まず自然ですが、これまでの神戸市の自然への対応をみていますと、山をけずって、海を埋め立てるという、人間のほしいままに利用する征服する自然観のように思われます。

 自然を人間のつごうのよいように切り刻んでかまわないのだというふうに見うけられました。
 自然を支配下におき、自然の尊厳をおとしめるような乏しい自然観のように見られたのですが、いかがでしょうか。
                        
 私にとっての自然とは、その中から全てのものが生まれ育ち、あらゆる生きとしいけるものが共に生き、共に存在しているものだと思われます。

 自然とは、まさにひとつの壮大なるネットワークであり、自然とは地球とあらゆるものと一体であると私はとらえています。 
 そして人類も、生物もその自然のごくごく一部だと思っています。 
 
 見えない多くの生きとし生けるものと共に、自然の中に生かせていただいていることを日々有り難く感謝して過ごしています。 

 このように、私は自然への畏敬の念と一体感にもとづく自然観を持っています。 
今日行き過ぎた物質文明を思うとき、私のような自然観を持つ人も、今日多いのではないでしょうか。

 このような一体である自然観にもとづいて、都市と人と自然の関わりあいを考えていきたいと私には思われます。
  自然と人が、共に生き生きと共存しあえる、そんなふうな都市の在り方を開発をすすめてきたこれまでの神戸市のあり方を反省して、 、今後は新たな自然観ですすめていただきたいと思われます。


 支配か共生か。これまでの強者の論理か、はたまた違いを生かしあい、目にみえないものまでも感謝し喜びあえる一体となれる共生の世界か。 

 神戸市はどのような自然観を持って、復興計画をしようと考えているのでしょうか。
                        
 神戸市はこの震災を全くの偶発だとみておられるのでしょうか。 

 いえいえ、この多大の損害と犠牲を顧みた時、これはただの天災でなく、市民の安全と福利を守るべき行政が道をはずしたとの、天よりのお叱りの揺さぶりだと思われたのではありませんか。 

 これまでの神戸市の自然に対するあり方を反省させるための天啓であると、お感じにはなられませんでしょうか?

    ● 意識の変革こそ必要
 
 これまでの都市計画の意識のままで、自然と人と都市が共生できるとお思いでしょうか。
今までどおりの意識では,とても無理だと私には、思われます。

 そこには意識の変革による新たなシステムの変革が必要とされるでしょう。 

 真に自然と共に考える復興計画であるなら、この地震により、行き過ぎた文明のかくももろく崩壊した部分、露呈した砂上の楼閣の部分を、かなりけずりこむ実践になろうかと思われます。

 そして、文明に甘え、傲慢になり、感性の鈍ってしまった現代の人間にとっても自然との共生は、いろいろと慣れない難しい面も出てくるとも思われます。 

 ところが市の復興計画案はこれまでの、地域での商売の店店の、売る声のとびかう町の市場のような賑わいの場所さえも高層ビルとコンクリ−トの広場にしようとしています。 

 それでは、これまでの地域住民に一体どこにいけというのでしょうか。 

 地域の目にはみえないけれど深いつながりのコミュニケーショというものを、そのような場所で、どのように育てようというのでしょうか。 広いコンクリートの広場には人っこ一人いず、高層ビルからの六甲おろしが吹きすさぶだけではないでしょうか。
                           
  この震災にあった私たちも、たとえあわなかった人々も、この大地震という自然からの警告について、亡くなられた5500人の方たちとともに死んだつもりになって、今一度充分に文明のあり方、都市のあり方を一から吟味検討しなおさねばならない時がきていると私は思うのです。
   
   ● よく見 よく聞き よく考えて
 
 例えば、地震の″時″が違って、新幹線も車も高架を走るラッシュ時であれば、さらに十数万人もの犠牲者がでていたでしょう。 私という存在も消えていたかもしれません。 

 又、地震の″場″が違って、もし原発が数基ある敦賀に地震がきていれば、チェルノブイリ以上の地球レベル、人類レベル 、遺伝子レベルでの多大な犠牲を未来にわたって被ることにもなったことでしょう。 

 そして日本人の愚鈍さ、市民のながいものにまかれろという怠慢と行政の無責任ぶり、それを世界中に示してしまい、地球上の全ての生物からも糾弾されることになるのは日をみるより明らかです。      


  あのチェルノブイリの折、ソビエトの科学技術庁のトップの責任者である優秀な科学者はゴルバチョフに情報公開を託して自殺しました。 

 そして、ペレストロイカはおこったのです。 続いてソビエトは解体され、東西の冷戦は終結し、核への忌避意識は、今や地球市民の一人一人の意識レベルに達しています。 

 現在地球上で、これ以上原発をふやそうとし、核廃棄物をこの地震国にためこもうとしている文明国が日本より他にどこにあるでしょうか。 
 
 どこもふやそうなどとはしていません。ただ日本だけが、目先の利益にしか目のいかない電力会社の献金にそそのかされて、いつまでも原爆をつくりつづけています。 政治屋や大企業のエゴイストたちしかり、そして自ら考えようとしないで自分たちの暮らしにつながる政治を多くの国民たちは、未だ人まかせで目の醒めていない状態なのです。                    
    
今回の地震による以上の神戸市の崩壊は、原発のあり方と無関係であるとは、思えません。    

     
  ● ″新生″神戸への期待
 
 今回この大震災では、神が戸を叩かれるがごとく、まずは神戸が叩かれたわけです。第一の門は開かれたのです。

 しかしこれは、まだ第一次段階ではないでしょうか。新生へ向かわせる為の″破壊の始まり″かもしれません。

  この神戸の震災を人類への警鐘として、全世界が慎重かつ重大にうけとめ、叡知を集めて″新生″への道を求めていくことが、人類を地球を救う道ではないでしょうか。 

 それが、これまでと変わりなく恥の上ぬりをするような、意識の変革のないままの非情な都市造りでは多くの犠牲者は浮かばれなんんじゃないでしょうか。

 神戸の新生こそ人類の新生になるような、今こそ新しくて良き知恵と良き力を結集し、これまでの古い意識のしがらみから抜け出す時がきているとわたしには思われるのです。          
     
  
   ● 意識と価値観の転換を
 何度もいうようですが、この震災の意味と気づきを自分の心に深く問いましょう。
 
 21世紀に向けて私たちの意識の深い部分にまで、充分な変革を試みてゆく時がきていると思われるのです。

 今ここでこそ、新しく21世紀へむけての私たちの意識の目覚めと、新しい価値観への大転換を試されている時がきていると私には思われます。

     ●   想定不可能?
 
 崩れないと思われていた高速道路は無残にも倒れました。新幹線の線路も駅のホームも電車の高架も崩れ落ちました。 

 古い木造家屋もくずれました。 新しいビルも基礎のいいかげんなものは傾きました。

 高層ビルも高層の住居も停電や断水ではとても暮らせません。
 
 まさに砂上の楼閣と化しました。 まさに思ってもないこと、万が一のことが起きてしまったのです。

 人智の及ばないことはおこるのです。 それは、何故でしょうか。

 昔の人は地震のことを″世直し大明神″といいました。

 建物も価値観も全てが覆され、一人一人が揺さぶられ、生き方のみなおしたてなおしがせまられる、それが地震だと私は思うのです。
                               
    ●  危機意識あってこそ危機管理

 例えば高層ビルは火事などの緊急時には13〜14階までしか消防の梯子車は届かないとききます。 

 それ以上の緊急避難用エレベーターもビルが傾いては作動しません。

 又、本来中高層住宅のの生体に及ぼす生理的悪影響も高さへの電力をはじめ壮大な無駄遣いをおろそかにはできません。

 この震災時、病院の自家発電も不充分でした。 タンクの水も停電でポンプが作動せず、水がなくては患者を守ることができません。 

 人工島ポートアイランドも液状化現象で泥水びたしで車が走れませんでした。

 今だに地下の配管はズタズタのままで、垂れ流しだそうです。
  人工島に渡る橋もひびだらけになり、島への交通手段のポートライナーや六甲ライナーも夏
まで復旧できそうにありません。 

 そんなわけで、神戸一の規模と近代設備のポートアイランドの市立病院もこの災害時には、
ほとんど役にたちませんでした。 
                         
     ●  沖合の人工島の重みが・・・
 
 ポートアイランドに林立する30階近いマンション群も林立する各企業の高層ビル群も大病院
もホテルも全てが地下の岩盤の上に建てられています。 

 岩盤とはいえ、今回の地震でも証明されたようにもろい断層だらけの阪神淡路の地下の岩盤
は、人工島を作った六甲山の土砂を始め、それらのビル群の膨大な重みを直接に支えるには
荷が重過ぎたのではないでしょうか。 

 そして、東灘区の沖にも同様の広い六甲アイランドができています。

 芦屋浜にも30年前から、又西宮の沖の海もどんどん埋め立てられています。

 私はそれらのそびえたつ高層住宅群の谷間に建つと、周囲の空と海との対比のアンバランスに
めまいがしてきそうです。 誰があのてっぺんに住むんだろうなんて思わされます。
      
     ●  岩盤への負担をこれ以上ふやさないで
 
 神戸市はこれら断層上の町として、長年にわたり、あやうい岩盤に与え続けてきた数々の
開発の負担をこれまでに考えたことがあるのでしょうか。 

 地殻とはいえ流れるマントルの上、そのうえ太平洋からの巨大なプレ−トの動きと大陸のプ
レ−トの接点に位置する日本は古来より″地震・雷・火事・親父″といわれていたのです。 

 特に六甲山系は海から押されてもりあがった山ですから、平常でも年に10数cm上昇して
いるそうです。 

 そして、押さえともなる山の裏の土砂はどんどん削られ運ばれて、近年にはいって岩盤に直
接建てていく高層ビルや高層マンションの住宅地が一気にふえました。 そして埋立による人
工島は増え続け海岸線は日に日に様変わりしているのです。                 

     ●  世界一の橋の張力は・・・

 くわえて一年前から世界一の明石大橋(垂水区)のために、その岩盤にはボーリングがなされ、
500mの杭が何本もうちこまれました。

 そのボ−リングの地響きは、とおく、川西市野瀬町のほうまで微弱地震となってあらわれたよう
で、遠く離れた町民を悩ませました。

 阪神淡路の海の下の岩盤は、沖合の人工島の重みや世界一の橋の張力も受けながらの青
息吐息です。

 そして、序々に怒りのエネルギー(地のエネルギー)をためてきたと私には思われるのです。

 地震のすぐ前には、明石の海底から、赤茶けた泥が噴出したともききました。

 十分に想定される事態ではなかったでしょうか。幼児の頃の砂場遊びが思い出されます・・。

 規模こそ違え好き勝手に土を触っていることでは同じようなことだと私には思われます。

     ●  自然からの発信を受けとめて
 
 1カ月前から井戸の水は干上がり(私のいた六甲のマンションも井戸水でした、水位はかなり低くなっていました。)、地中の生き物もその乱れたエネルギーを感じて逃げ出したとききます。
 
 うさぎは穴から赤はだかの子をくわえて外に出し、野バトは町から消え、わにも蚕も地震前に荒れ狂っていたそうです。 

 エントロピーは最大になっていたのでしょう。そして、地震の直前白と紫の閃光がきらめきました。 
 耐えに耐えた大地のエネルギーはついに堰をきって爆発させられたのです。
 
 しかしながら、このような大地への過酷な状況や自然の予兆、様々な生き物からの発信を検証して次に備えることをしているかというと、復興計画の中はインフラ受注で重ねて神戸沖の新空港計画が依然として続行のままなのです。
 

 その豪顔不遜なその考え方に、とても自然への畏敬の思いや狭い人智への反省など全くないように思われます。 

 これでは、この提言募集の、自然と人と都市の共生のテ−マも、全くのポ−ズだけにも思われ
かねないでしょう。 
 
   
    ●  超高層の時代は終わった
 
 この上、人工島をふやし空港も設置してゆき、今回、地震に強そうだったからといって岩盤に直接建つ高層ビルを増やしつづけていくのでしょうか。

 このままでは原因を省みないまま、さらに岩盤への負担を増す悪循環へと陥っていくのではないでしょうか。

 この心配は素人の紀憂かもとれません。 
 
 しかし、この度の震災で倒壊でご覧になったように玄人さんや専門家の、いざという場合への考えが及ばないことは今回で証明ずみです。 

 それはヘタな知識の枠が想定不可能な場合という発想の邪魔をしていたり、経済優先の社会に待った!をかけれない御用学者となっているのてはありませんか。 

 経済優先の神戸市に迎合したのではないかと、私には思われるところです。

 
 行政や官僚主義の方たちのエゴや自己防衛や考えの枠の狭さが、この震災への対応のあり方、予想外の想定不可能な事態へのあわてぶりに、はっきりとあらわれていると思います。
 

 このうえ、この岩盤に空港計画や震災復興としてますます沢山の高層ビルがたてられた時、今後再びこのような大地震、不慮の事態がおこらないと誰がいえるのでしょうか。 犠牲になるのは私たち住民なのです。

 
    ● 今、神戸にいることの責務
 神戸市には、この天災を人災にしてしまった責任があります。 それはまた、そこに住む私たち一人一人にもそんな行政を許してしまったという同様の責任があります。 

 私たちには、この度の都市直下型地震の状況を充分に分析、吟味し、反省もして世界に恥じない21世紀を先取りした町づくりをしてゆく責務があると思うのです。 

 この震災を機に世界に誇る神戸になれたら素晴らしいと皆が思っているのではないでしょうか。 

 それには、震災に出あった神戸市民だけでなく、日本の人皆が充分に我が心に問いなおして″新しい21世紀の世界のあり方、自分自身の生き方、そして、自然と人との関係のあり方、都市のあり方等″を自ら考え創り出してみることが必要ではないでしょうか。 

 そして又、世界の識者の意見なども充分に検討吟味してみるとよいでしょう。

 新しい皮袋には新しい考え方が必要とされます。 
聖書にあるとおり、先のものは後になり、後のものが先になるのです。 

今こそ新しい街づくりを新しい感覚で、原点に戻って、未曽有の事態にも対応できる幅広い見方が検討されてしかるべきでしょう。

 そして、自分たちのすんでいる所は自分たちの意識の反映されるところです。

 一人一人が震災後の町づくりに新たにつかんだ石儀で参画してほしいと思います。
                                    
    ●  精神文明と科学文明の融合を
 
 私は、新しい21世紀の世界は、精神文明と物質科学文明の融合された真に実のある輝かしい文明の夜明けになってほしいとおもうのです。 

 そして、21世紀には、新しい変革した意識で、一人一人が心から喜んで住める町づくりが
なされていければと思うのです。

 この神戸の大震災に学んで、意識の転換がなされるか否かが、21世紀に人類が輝けるか日本が、新しい意識に参加できるか否かの″ターニングポイント″になるように私には、思われます。

 「まず僧侶が怒り、次に天使が怒り、そして神が怒る・・・」これはアメリカの先住民族のインディアンの予言にあるものだそうです。

 その順番の通り、まずサンフランシスコ、次にロスアンゼルス、そして神戸の順番に地震がおこり、とうとう最後の神の鉄鎚が下ったのです。 

 意識の転換がせまられているのです。  では新しい意識とは何でしょうか。     
                 
    ● 新しい意識とは
 
 新しい意識とは、地球意識、宇宙意識になることだと私は思っています。 

 それは、震災後すぐのみなの心に宿った素の心です。心の奥底のところで全ての生命はつながっているという、そのような全てとの一体感であり、全宇宙との融合した感覚だと思うのです。 

 人類もあらゆる生物、すべての物質と同様であり、全てが対立ではない、融合と共生共存の世界観をもつことで、21世紀を明るく幸せな世界へと開いてゆけると思うのです。                                 
                          
 それは、これまでの自分中心の自分の欲望だけを満たしてきたようなあり方では決してないのです。 
 
 心を忘れ、中身がないまま建物だけ大きく、形骸化した物質文明や、科学だけを突出して追及してきた科学文明の有り様でもなく、これからは、科学文明と精神文明とのみごとな融合を目指していくことこそ、新しい意識だと思っています。 

 そして、現在の人類の歴史のふりこは精神文明への探究への道へと向かっています。すべてはバランスです。 これまでの科学文明と侵略戦争へと大きくふられてしまったふりこは揺り戻されたのです。
                         
   ● これからの方向性は

 私たちは過去から未来につながっている生命の一通過点を担っているという意識を常にもっていたいと思います。 

 この一点から未来へと向かう方向性は、宇宙の摂理・自然の営みに沿った素直な方向性を持ち、未来の地球に生きる全ての生命に責任ある態度をとってゆきたいと思うのです。 
                               
 新しい意識は、これまでの競争原理や強者の論理、大量生産、拡大成長を目指す方向ではありません。

 皆との調和とバランス、安定したリサイクル型の経済であり、それぞれの違いを楽しめるものとなりましょう。 

 又、エネルギー的にも南北融和の形態をとってゆくようになるでしょう。 

全てが対立でなく、互いを尊重し合った協調であり、共存共栄から融和・融合に向かうのです。

   ●  21世紀の先どりを  
 
 このような新しい意識で世界の模範となる町づくりが、この新しく生まれ変わる神戸の私の住む神戸でなされていくとしたら素晴らしいと思うのです。

 ハイカラな神戸には、震災後の意識もまた21世紀の新しい感覚を先取りしたものにしてほしいと思います。 

それは、自然と地球と人が共生できる、人も自然も喜びあえる町づくりです。         

 そして、これまでの行き過ぎた科学文明のつけを「未来の子供達のお荷物」にさせることのないよう、今、目覚めたものは、声を集めて、人類のバランスを欠いた発展のコントロールを始めねばならないと思います。

 自ら行き過ぎを是正できる広い視野を育てて、固いエゴもうち壊し、弱いもの、小さいものに耳が傾けれる、声なき声が聞ける、心と心の通いあう新しい文明のあり方を自分から作り出していきましょう。 

 そして自分本来の生き方にめざめた時、自分の住む環境や都市や、街の在り方というものにも問いかけ、子供たちの未来にむけても暖かい環境づくりを共に作り出していく時がきていると思うのです。

    ●   株式会社 神戸

 何故、株式会社神戸といわれていたのでしょう。それは、行政として恥ずかしいことではないでしょうか。 

 会社は利益追求と合理化とで運営されるものです。
しかし、公共の予算は国民の税金ですから、利益だけでうごかされるのでなく、公共でなくてはならない、市民への福利還元が第一の仕事でしょう。
 
 しかし、神戸市が会社といわれることの背景には、株主になれない人や働けない人にとって居づらくされている神戸だったということだったのではないでしょうか。

 それは、今回で神戸市の福祉が全国のワースト1・2番であるとみなにわかりました。。
今私が問題にしている新しい意識の上では、おかしい状況ではないでしょうか。

 これまで神戸市はそう言われながらいることになんの恥じもなかったかもしれません。

 しかし、この震災で結局市が会社として非人間的にかせいだお金も人災となって、結局吐き出すことになりました。多くの生命とひきかえにして。
 
 しかし、世界からの義援金の2000億円に近いお金も、使い道がまだきまらぬまま、日に1千万円近い利子がついているそうです。 その利子の運用もすでに計算のうちとか、聞いています。

  お金もうけもそれが、本当に生かされて使われて、ガラス張りで皆が納得できることなら、それなりに素晴らしいと思われます。

  しかし、市民不在の行政や一部のものたちのエゴをみたすような使われようでは、この震災で自立しつつある市民の目をごまかすことはできないでしょう。 

 行政側は市民の気持ちになってことがあるのでしょうか。市民の声を聞き感じとるのに、自ら街を歩き、避難所に足を運んだことがおありなのでしょうか。

 市は人災ともいわれる震災を前にして、これまで突出して走りすぎていた部分の反省などしたのて゜しょうか。

 作った責任、使った後始末を考えない、経済優先、強者優先、合理化の片面からしか見てこなかったのではないでしょうか。

  しわよせしていた見えない部分に気づいていなかったことが多々あったのではないでしょうか。                     
                            
    ●  市民の代弁者としての政治を
 
 株式会社とまでいわれてきたこれまでの在り方のなかに、市民一人一人の代弁者代行者としての政治であることを忘れ、強者の論理で政治を我がもの顔に牛じってきていたのではありませんか。

  そして今、復興への道も又、同じ意識のままに突き進もうとしているのではないでしょうか。

 今、政治の場にいる人は、その点を深く反省していただきたいと思うのです。

 政治は特権ではありません。それは権力者になることではなく、市民への公僕なのです。

 市民の立場を生命と安全と暮らしと権利とを守るものであって決して、支配したり対立するものではないと思います。

     ● 一人暮らしの高齢者

 たとえば、この度の震災での一人暮らしの高齢者の方々ですが、一人一人の困っている問題は違うのです。

 勿論、お友達もあり、親戚も身近にいる方はそれなりに助けもありましょう。

 しかし、遠くの親戚より近くの他人です。身近ですぐ対応してあげれて、個々それぞれに違うニーズに応じてあげれるボランティアの必要性を今回ほど感じたことはありませんでした。
 

 とくに、避難所にバラバラに収容されて、それまで培ってきた近隣のコミュニュケーションが分断された状況、震災による非日常性での戸惑い、たよるすべも知らない一人暮らしの方々に様々な方法を示し、手助けしてあげることは大変に必要なことでしたし、本当に大変喜んでいただけていたと思います。

 これらの方々も、又重ねてあちこちの仮設住宅にバラバラにいくことになるのです。

 知った顔、地域の方々と一緒に仮設に移るわけにはいかないのでしょうか。

 知り合いと離れるのがいやだったり、地元から離れては再び帰ってこれないだろうとかと思い悩んで、せっかく抽選であたった仮設をことわる方もいらっしゃるのです。

  ほとんどの方は長年住み慣れたところを離れたくないし、又遠い仮設の知らない土地に一人でいくことを大変不安に思っていらっしゃるのです。 

     ●  個々に対応できる政治を
 
 行政という大きな組織になりますと、こういう細かな個々に対応することが大変できにくくなるようです。

 個々の悩みを聞いて対応してあげることが、まるで公平を欠くとでもいう感覚で1人一人の悩みなど聞く気もないという役所の方も多いようです。

 しかし、それぞれの違う悩みを行政的に十束ひとからげに決めるわけにはいかないことは、一人一人の話を聞いていると切に思われます。   
                           
 
  又、たとえば、死亡時の給付金が直系だけというのも、遠く離れて、親子が疎遠で、音信も行き来もろくにしていない、ほおったままだった親でも多額のお金がいただけます。

 一方で、長年たよりそって支えあってきた兄妹でも、片方が亡くなった場合に全く葬式代もでないというのでは、どう聞いてもおかしいように思います。

 一人一人の心の訴えや悲しみを共感をもってきいてあげれるのは、ボランティアならでこそできることでしょう。そして、おかしいと、行政に対し代弁してあげることも必要なこともあります。

       ●  ボランティアを生かして
 
 そしてこの震災の救援も、行政はおおまかなところに対応するだけでせいいっぱいのようで、細やかなところは私たちボランティアにたよっていたと思います。

 だのに残念ながらボランティアからの要請や多少の援助にもこれまで耳をかそうとしませんでした。
 
 しかし、現在はこれまで″お上″であった行政もひっくり返されて地に頭をつけねばならなったよとお知らせされているように思うのです。

 ですから、この震災でのボランティア活動のあり方は、今後の草の根の行政のあり方にとって力強い味方になれると思います。
                             

 そのためには、行政の方がボランティアのテントに入ってみて、一緒に歩いてみて、そのきめ細やかな必要性に気づかれることが、今後神戸が株式会社といわれないためにも是非とも必要なことだと強く思われます。 

 これまでの行政の気づかなかった細かなこと、日のあたらない裏の部分、影の部分も充分に知ってほしいと思われます。

 そのためにも行政が雲の上から市民の立場におりてこられる方策をたてて頂きたいと思います。

そして、今後の行政のあり方も、市民とともに、市民サイドから練りなおされることが今後の重要な課題でもあると、私には思われます。

        ●  情報を生かして!

  又、震災当初、全国から多くの善意の申し出が各役所に届きました。

しかし、役所はとてもそれらに対応するひまがありませんでした。
ですから、せっかくの情報もほったらかしでした。 
 
 それだけでなく、例えば インターネットに全国から「来てください、家も食べ物も提供します。仕事も提供しましょう」と、どんなに多くの救援のメッセージがはいったことか・・・・!!!

 
 ところが、それらの善意の情報はほとんど″タレナガシ″の状況でした。 私は、灘ボラのテントにきた時、すぐさまそれらを打ち出してもらい、避難所をまわる時にコピーを配ってまわりました。

 が、実際問題として、目の前の壊れた家があって、物が入ったままで、亡くなった肉親のことで心がいっぱいの被災者にとって、せっかくの善意の情報も、今はそれどころではないというのが現地ではよく分かりました。

 つまり、送り手と受け手の情報のすれちがいであり、上手にコーディネートする人が全くいなかったのです。 他にも需要と供給がうまくつながらないことは、沢山ありました。 

 
 私のしりあいが、壊れた家から、一時家具などを避難できるよう、大きな倉庫に話しをつけて、役所に連絡したそうですが、返事がこないままだったそうです。結局、それを被災者たちに伝えることができないままだったので、せっかくの話も生かされなかったということを、後で!!きかされました。 
 
「役所でなく、わたしたちボランティアに連絡くれたらよかったのに・・・」と、つい言ってしまいました。 

その時にうまく連絡がとれていたら、どんなに助かった方がいたことかと、後になって大変残念に思わされました。

そんなふうに、今や情報の時代ですから、しっかりとみなさんに伝わるよう情報広報室のシステムを設定することも必要となるでしょう。

 そして、よこされた情報を逐一、重要視していかしあえるよう、コ−ディネ−トすることが、こういう非常時には特に大切な仕事となるでしょう。

 「 いかに上手に、必要な時に、必要なところに、伝えるか。」 

これも、これからの災害時には、大変に重要な課題となるだろうと、私には強く思われました。


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