
それは“修羅”なのか
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他の生命を食べなくては、いきてゆけないそのように人間の姿を
宮沢賢治は“修羅”と諭しています。
それを修羅とみるか、あるいは・・・
その生命を有り難いものとして頭に頂いて、その生命のエネルギ−を
頂いた生命とともに輝かせてこの世界に還元していこうとする・・・
いわば植物の夢を、自然の夢を、地球の夢をかなえるために、
ともにひびきあえる夢をかなえるために、知性と理性をもって
頂いた生命のために立ち働けるような
そのような共生の世界をつくってゆくんじゃないかともとらえられると思われます。
食べ物と一緒にあって、食べものにより生かされ、
環境とともにあって、環境によって作られ、
自然とともにあって、自然の中で暮らしてゆく。
友人とともに、家族とともに、みなが楽しくひびきあいながら、
ともに広がる夢を懸命にかなえていくことじゃないでしょうか。
わたしたちの活動はみんなそれぞれの生命の夢をかなえてゆくことではないでしょうか。
それでこそ、その生命をいただいた責任を果たすともいえるのじゃないでしょうか。
自分が進歩して育ってゆくことが、ともに響きあえて、
みなの進歩につながっていくことになるようでありたいと私は思っています。
これは共生の世界であり、共時性ともいえるものかもしれません。
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