ゆきちゃんの世界
  * * * つれづれなるまま * * *
新年明けまして おめでとうございます

1995.1.4(本物を感じる会通信 1月号) YUKI.I



 今年は″乙亥の年″″木性″の年。今年こそ益々″気″の方面、″心の世界″へと、気が向く年となりましょう。

 そして″五黄″。今年は皆様が忌憚なくご自分の本分をお尽くしになれる年であり、まさに自分
を知る年になられることでしょう。
そこで、気質人間学も学ばれて、なくて七癖に気づき、心のお掃除をなさるのに、大変よい機会かと存じます。

 ″光″と″悪夢″のポエムいかがでしょうか。明と暗、全てが表裏一体なのです。
でも、私は、決して終末思想ではありません。
″気づき″があれば、明るい世界が開かれるものと思っています。

 21世紀は明るく輝いていると思います。それは、多くの方が明るくなられることで、開かれていく世界なのです。

太平の眠りをさますなんとやらで、驚かせてしまいましたら誠に申し訳ございません。
が、″悪夢″の方もその″気づきの真意″をくみとって頂けたらと思われます。

 これは初夢ではなく、私が、十数年前にみた夢です。その時、子供はまだ3人でしたから、2人しか助からないのかと思い、とても悲く思ったことを思いだします。
そして、この悪夢が現実にならなようにと願ってきました。  


   [自然に学ぶ]       
 
 私は4人の子の母親です。 家で少々のピアノを教えています。主人はサラリーマンです。
私は3人目が生まれるまで、大学でピアノとソルフェージュを教え、人の2〜3倍働き、それなりに稼いでいました。 

 が、見えない世界をみえるようになりたい、気の世界に出会いたいという思いで、子育てを選び、いろいろと摸索していた頃にこの夢を見ました。 

以来、見えない世界につぎつぎに出会って、この天変地異をどうすれば切り抜けれるのかを求めてきました。  

そして子供とともに大いに自然の中で遊び、自然を感じ、自然に学んできました。

東京にいる時は、日本CI協会で玄米菜食を大森英桜先生、桜沢里真先生にお聞きしました。
 大阪に戻ってからは良い食べ物を育てる会で活動し、子供達と一緒に援農を楽しみました。
又、桜沢如一先生の直弟子の山本祥園先生に正食料理を習いました。

 その頃、シュタイナーの神智学やオイリュトミーも学び、ニイル研究会やフリースクール研究会にも参加していました。

丁度”自由の森学園”ができる頃で、遠藤豊先生をはじめ、様々な教育に関する識者をお呼びして、毎月研究会も持っていました。 

 4人目の子を屋久島の″T農園” で自然出産しました。
4人目がうまれてからは六甲山の山頂近くに山荘を借りて住み、上の子たちは六甲山小学校に行き、幼い子らと自然の中で山の気を満喫し、田舎暮らしをしました。

 その後、I市に行き、以来7年余り畑を耕しています。今はやりのEM菌も一早く使い、4年前に神戸にきてからは、救世教の人達と一緒に百姓の方々へのEMの普及活動にも加わってきました。


   [求めよさらば与えられん]    
 
 私は小さい頃から不思議な超常体験をしたり、セッティングされた偶然性にも気づいていました。
 ″求めよさらば与えられん″の言葉が私のモットーでした。
 そして、瞑想を始めてすぐ、思うがままに世界を飛び回ったり、宇宙にもとび出すという体験をありありとした私は、ようやく見えない世界にめぐりあえたという感激に涙があふれ出ました。
 しかし、しばらくたつと不安も呼びおこされました。まだまだ自分には準備ができていなのに、ひょっとしてあらぬ幽界に入りこみ囚われてしまいかねないような恐怖を感じたのです。 


   [光と出会う]  
 
 それで、瞑想も捨て、ひたすら子育てや畑を耕している今から6年余り前に “光” と出会いました。 
 以前にも子供を宿した時、天より光がきて、閃光と柔らかな霧のような2種類の光の小爆発を腹中にみていました。
陽と陰この2極の光から生命がもたらされるのだと、後になってその意味が分かりました。
  “光”と出会った時は、白昼、″クリシュナムルティ″の本を読んでいた時です。
ふと目をあげて、空間をみつめた時、気持ちはただ慈愛と感謝にあふれていました。
 すると、私の意識は頭頂から離脱して無色透明の輪となって空中高く舞い上がり、
すぐさま凝縮をはじめて、点となり、無となった瞬間、閃光をはなって大爆発したのです。

そして、目に見えるすべてに葉っぱの一枚々、瓦の一枚々、窓枠や、山々にまで、目に見えるすべてにその閃光はゆらめきとなって入り込み、目にみえるもの全てが、私になってのです。
 全てが私になり、私は目にみえる全てになったのです。 私は全世界と大宇宙と融け合ったのです。 
 その瞬間、いっきょに類まれなる、唯一無比の、たとえようのない至福の歓喜にみたされたのです。
 それは、あふれてくる膨大な光のエネルギーの喜びなのです。その至福の境地は、3日間つづきました。
 以来いつでも至福の喜びが、歓喜が体をみたしてくれて、何の心配も不安もなくなりました。
いつでも感謝の思いと喜びがあふれ出てくるのです。これはめったにない神秘体験だと後に知りました。  


   [不安のない活動ができる] 
 
 そして、様々な活動も何の心配もなく、思うまま、ことが運ぶようになりました。
 I 市では” I 暮らしと給食をみなおす会”を始めていましたが、2年のうちに学校給食の合成洗剤から石けんへのきりかえへの導入ができました。
 又一商店独占だった野菜の仕入に関しても、無農薬も考えた優良商店なども参入できる入札が始められるようになりました。
 又、様々な地球環境に関する勉強会をもったり、自然食の料理講習や味噌づくり、プリンせっけんづくりなどもしました。 
  

   [本物を感じる会もはや3年]

 そして、神戸市にきて始めた”本物を感じる会”も3年余りになります。
今は、だんだんと響きあえる方々にであえてきて、てごたえと充実感を感じているこのごろです。
 うまくいかないように思われる事もありましたが、じつはさらにステップアップするためのはからいであったことも分かりました。
 又、多少のエゴでもあった日には、すぐに思い知らされることが起きますので、様々な欲もエゴもほとんどわかなくなってきたように思われます。 


   [良い響きあいの中で]   
 
 欲にふりまわされず、いつも、満たされた豊かで明るい喜びの意識でいることは幸せです。
 この世界、この宇宙にいるものはすべて響きあいの中にいます。
自分が良い響きのなかにいると、周囲にいる皆も、いつのまにか、
明るく響きあい、輝きあうようになってくるようです。
 一緒にいることが楽しくて気持ち良くなってくるのです。
これこそ″主(宰者)に交われば、明くなる″といえるのかもしれませんね。
 このように周囲の人の心と明るく響き会って、互いに輝きを増してゆけるには、
まず自分が開かれて″灯″にならねばできません。
 一人一人が灯台になって周囲を明るくしてゆけるように、自覚と自信をつけてゆく、
それが、私の主宰する″本物を感じる会″のねらうところです。


   [夢について ]

 ″夢″のポエムについて、私なりに解釈をするならば、この光景は、もし霊的な世界があるならば、そこでの出来事としては、既におきたのかもしれません。
 そして、見えない世界の出来事、無意識のイメ−ジは、やがて見える、意識の世界へと移行してくるようにも思われます。
 私は、子供の頃から、素晴らしくきれいな、美しく澄み切った夢をよく見ていました。
美しく明るい、まさに夢のようにきれいな、色とりどりの海の中を泳いで、楽しんでいる夢をいつもみていました。 
 緑の山の中・・様々な美しい色の山々や、空の色色とりどりの繊細で美しい木々の上を飛ぶ夢  ・・・洞窟のなかをしぶきをあげて、ごうごうと流れる川・・・
・・いつも水とともにあったことを思い出します。


   [水の働き]     

 池邊の池は“水也”。″水″は″瑞″で、幸いのしるしであり、″霊出づ″で、人間の魂の生まれ出るものを意味しているようです。
それは、海を表しているようにも、又潜在意識も表しているように思われます。
 水こそ、生命になくてはならぬものであり、自分を清新にして、周囲の汚れを落としていけるものです。
潔さで、自らを汚しながらも周囲を浄化し綺麗にしてゆけるものです。
 そして、光と火と風と、土と月とともに地球に満ちて、生命を育むものです。 
 ″邊″は、広く述べ伝えることです。
難しいツクリの方は、自ら悟り気づき”自”、自分を無に”点″にして、”八方”つまり、見える世界、見えない世界の両方が、和やかにつながる”ワ”への道をひたすら進む” ”こと。 これらが実感として体感されてきました。
また、名前の○○は、祈りの言葉そのものです。

それまでは、結婚の真の意味がつかめず悩んだり、名前も画数も重く感じられ、勝手にいろいろと改名して笑われていた私ですが、そのことを感じれるようになった一年前位から、はやく本名に戻さねば、時はせまっているように思われてきました。


   [夢は現実になる]  
 
 夢に関していえば、昼間、ふっと浮かぶ光景を覚えておきます。
するとそれらは、後になって”これが、あの光景だ”と夢は現実になります。
 未来は、ほぼ決まっているかのようです。夢がかなうまでの間隔も短くなってきています。
しかしながら、汚い心を昇華させながら、マイナーな考え方を改め、体も心も浄化してゆき、無我の境地に近づけるよう、自分のうちの魂の光を信じて、良いことのみをしながら向上してゆくときには、未来も又良いほうへと変化してくると私は思っています。
 全てが自分の心と行動次第だと思われます。
自分自身が向上してゆくには、一刻一秒もおろそかにはできません。
普段の生活も全てが修行といえるでしょう。


   [魂が溺死する]   

 この”悪夢”にあらわされている出来事は、現実のこの世では、今まさに裏の出来事、心の葛藤となって現れてきています。
 自分の内なる魂の光にきづかぬまま、内的に向上せぬまま、すべきことをしないで、ながされたまま過ごしていたり、移りゆくこの世の物質的なものや戦々恟々の濁った思い、狭い枠の固い思いなどに囚われたり迷ったり、表面的な歓楽に酔いしれて過ごしてしまうと”魂は溺れ死んでしまう”ということをこの”夢”は示していると思われます。


   [心の葛藤]   

 心の葛藤とは、昔からよく良心と悪念との戦いといわれています。
 心にもくもくとわきおこる黒雲の意識、 性格や気質の無自覚な反応や癖、そして何故かこだわったり、悩んだり、いろいろと気に病む気持ち・・・
 これらの煩悩に煩わされている状態が、苦しみや悩みや葛藤となるのです。
それは、心底の魂が輝き出れない苦しい状況なのです。
魂が輝けないことは、苦しく辛く、良心のうずきともいえる心の葛藤をうむと思われます。
これが″光と闇との戦い″ともいえるものでしょう。


   [対立意識を超えて]
 
 人によれば、自分に黒雲をおこさせる相手を悪いとしてしまう人がいます。
 これは、黒雲を起こした自分自身の側の心の内が分からない人であり、何でも人のせいにしてしまう反省のない心かと思われます。
これでは、真実の追及はできないし、人との対立や憎悪をうむだけでしょう。 
 あるいは、心に涌きおこる黒雲や悪い考えを悪として、自分の心からなくそうとか、排除しようとかいう、純粋主義や潔癖主義の人もいます。

 しかし、そこにも又大きな問題があると思われます。
 その悪を悪いとみる気持ちがマイナーそのものであり、敵対意識であることです。
敵対意識こそ苦しい黒雲であり、葛藤を生む原因となります。
人の心にわきあがる様々な思い、それにはメジャーなものやマイナーなものなどいろいろあります。
しかしながら、それらは体の状態、心の癖や様相に応じて、色々とわきあがってきてあたりまえのものなのです。
”あくも浮いてきてこそ取り除けるのです。” 
  

   [悪心もあってあたりまえ]
 
 ここが重要な点です。マイナーな思いや考えもわいてきてあたりまえなのです。
 欲もあってこそ生命力のあかしとも思い、パワーの証明とも思って、時には、自分の責任において、馬鹿なことをしてみて始めてきづかされることも多いでしょう。
 やってみなければわからないことだってあるでしょう。
  そして悪意もその原因に気づいて理解できるなら、受容でき、許しもでき、いとおしくも思えるものともなります。
 悪心も十分に受け入れてみとめてあげ,悪をひきおこす未熟な心こそ、体に支障のない程度に十分に受けいれてあげることが必要だと、私には思われるのです。
 助けを求めて泣いている幼子を誰もほおってはおかないでしょう。それと同じです。
 悪こそ苦しみ助けを求めている心なのです。
悪こそ癒しが愛情が必要な心なのです。
自分の内の悪心こそ、受け入れて、やさしく抱いて、なぐされてあげることが必要だとわたしは思っています。


   [敵ではなく、気づかせてくれる有り難い友]  
 
 ですから、マイナーな思いや考えがでた時こそ、消化して昇華できるチャンスなのです。
 そこでそのいやな思いをよく捕まえて、よく噛んで吟味し、とことん苦しんだり、誰かに受容してもらいながら、元々の原因を追及したりして、十分に消化してゆけば、よい経験として昇華できる願ってもないチャンスとなるのです。
 ですから、闇は戦う敵ではなく、より向上した次元へと気づかせてくれる有り難い友なのです。
感謝すべき相手なのです。
 わきおこる黒雲も元々の原因がわかり「あ、そうか。」と思ったとたん消え去ります。
黒雲が消えれば光はさして、影も闇もなくなります。


   [物事すべて表裏一体]    
 
 この点こそ、21世紀が愛と感謝の世界になれるかどうかの肝心なところだと私は思うのです。
ですから「汝の敵を愛せよ」とキリストが言っておられると思うのです。
それは、敵と思うこと、そのこと自体が、実は自分と敵とが相身互いであり、一体とも一対ともなれるものである、という真理に気づけるからです。

敵とみえるものは、実は自分の裏をみせてくれている有り難い存在なのです。
自分のみたくない面もみせてくれ、気づかせてもくれる有り難い友なのです。
 それを、敵として対立すると、戦うこと、競うこと、やっつけることや恐怖など、マイナーな事柄に気をとられてしまい、自分の心に何故敵として映るのかをよく吟味して、自分をよりクリアーにしてゆけるチャンスを 逸しかねないと思います。

 ましてや、敵だから排除するような方法では、心を広く学びあえるキャンスをほうり、もとのままの狭い枠内に囚われたままであることを示しています。
 学べるものも、学べなくしてしまいます。


   [敵対意識は葛藤を生む]

 自分の心に湧きあがる悪心や人を敵とみ、悪とみることは、自分の内に敵対意識をかかえこみ、自己矛盾や自己分裂をおこしその″しんどさ″に苦しむでしょう。 敵対意識は自責感や嫌悪感や憎悪をおこし葛藤をうみます。
心も痛めて自信もなくなり、自他への信頼も落ちる一方でしょう。
 
敵ではないのです。すべては表裏一体、こちらとみればまたあちらと、陰陽は一体なのです。
両方あってあたりまえだということが、しっかり分かれば、敵とみえるものも、実は自分のものとして、さらによく理解し受け入れることができるようになると私は思うのです。  


   [話すことは放つこと・自分の気持ちが掴めていますか]
 
 敵とも思う、自分を悩ますいやな思いは、ためこんだり、しまいこんでしまわないように、白日の下に、しっかりさらすことでしょう。

話したり、書いてみることです。話すことは″放つ″ことに通じます。話すと軽くなります。
 最初は、さえぎらず、注釈もつけず、説教もいらず、ただただそのつらい気持ちを受容してもらえるだけでいいのです。
 日記やカウンセリングもいいかもしれません。
たとえば″本音をだしあう会″でどんどん話して、自分の気持ちをしっかりと掴んで、きちんと話せるようになることは、自己表現の基礎です。
 その上、人の話も聞きながら学べるので、自分の心の整理をしてゆくには、大変有効で早く変化できることだと私は感じています。 


   [素直に無心に聞く]
 
  又、人の話すのを聞くことも、自分の我を折ることで始めて″ありのまま″が聞けるようになります。
 ありのままが聞けて、あるがままが見えるようになってくると、人のみえない心の機微もわかってきます。
 心の許容量がだんだん広くなってくるようです。
そして、話している人の心の黒雲も、無心で聞いてくれる人の″光″に照らされてでてきた黒雲はどんどん晴れていくように思われます。
 いつのまにか、軽く晴れやかになってきます。
どうしてこんなことで悩んでいたんだろうと、そんな気持ちになってきます。
  

   [気で聞くのでなく、光で受ける]
 
 よくカウンセリングなどでも聞くことですが、カウンセラーが自分の気でうけてクライアントは楽になれません。
 気と気がぶつかる聞き方では、気持ちが受け入れてもらえないので、話しても一層混乱し、苦しみが増すばかりです。
 苦しんでいる人を前にして、その人をそのまま全部受け入れるには、無我の光、愛の心で聞くしか方法はありません。
 無心の光に照らされてこそ、黒雲は海綿のごとく吸い込まれ消えてゆくのです。
 人を受け入れれるのは、聞くテクニックでなく、聞くほう、受けとめる方の目にみえない心のあり方こそ、じつは重要なポイントだと思われます。          


   [安心立命・愛と感謝]  
 
 今の自分の全てをありのまま受け入れてもらえた、わかってもらえた。
 今の自分の気持ちをわかってもらえた、今の自分が認めてもらえたという、自分が自分であることの安心感と喜びがわいてこそ、ようやく気持ちが前向きになれるのです。
 自分自身がこれまでの自分のいいも悪いもありのままで受容できた時、ようやくそこから自分自身を問う旅が始まるとわたしには、思えるのです。

例えば、いやな思いやいやな事に悩み苦しんで得たもの、それはそれで”気づき”といえるかもしれません。
 しかし、そこに”愛と一体感″の裏うちがないならば”感謝”はわいてきません。
気付かせてもらえたという、有り難いという思いがなければ、憎悪や嫌悪をよぶだけかもしれません。

 ″魂の光″に出会い上手に消化し、″愛と感謝″に昇華されてこそ、″みになる体験″″腑におちた思い″となり、真の″気づき″になるとわたしは思っています。

その感謝と愛で裏打ちがされれば、煩悩も一つ卒業だと思われます。
又同じ、いやな思いがきたとしても、今度は上手に対処できるでしょう。   


   [マイナーな波動は周囲を暗く、混乱させる]   
 
 何事も悪い風にとったり、疑ったり、人を責め、自分を責めるなど、いつまでもマイナスの思いや考え方にとらわれていることは、つらくて苦しいことです。

マイナスの思いは周囲にマイナスの波動を伝えます。
 周囲のものも、おかしいと感じ、しんどいとも思い、重苦しく感じ、疑心暗気となり猜疑心もめばえてきます。

 そして、気になる気持ちが囚われの心となり、心に滞り、誤解が生じ、喧嘩も戦争もおこるのです。

誤解がとけたとしても、からんだ感情はなかなか溶けません。凝り固まってエゴにすっかり支配されているのです。 
マイナーな心のとらわれや、考えの向きをなくしていくにはどうしたらいいでしょう。
 いやな気持ち、嫉妬も恨みも、妬みも羨みも、競う心も疑いも、いじめの心もいけずな気持ちもなくす方法があります。

それは″気づき″です。ここまで述べた事柄に十分に気づくことです。
 そして何より、マイナーな気持ちの原因を明確に掴むことです。
すると「あ、そうか」と分かります。 それが、ジャンプできたのです。 気付きです。
 今までみえなかったものが、見えてくるのです。 気づきは一瞬です。
妙なことが、嬉しいことが、不思議がおこります。
 そして、楽になり、明るく、すっきりとするのです。       
 

   [マイナーな気持ちの原因は何] 
 
 マイナーな気持ちや行動パターンは、生まれながらに持ち合わせた気質(知的、感情的、意志)の″癖″の影響が大きいと私には思われます。
  しかし、 気質の良い性能も, 過度(角)となると行き過ぎて、混乱を招き、かえってマイナーな状況をひきおこしているといえましょう。過ぎたるは,及ばざるが如しです。
又、親や兄弟との相性や関係性、さらに育ち方と環境と気質より形づくられる性格の傾向により、習慣的に持ち慣れた行動パターンというものが、できています。
 それは、無自覚反応である″気質の癖・性能″といえるものです。
自分ではなかなか気づけない、なくて七癖を持った気質なのです。      
  

   [気質に左右されている]        

 人は、胎内で体が作られるときも、生まれて、育つうちにも、その持ち前の星の影響である気質に大きく影響をうけています。
 何故その気質を選んでうまれたのか、そこに意味を見いだし、親との精神的な臍の緒をきって、自分の持ち前に気付いて、自立できることが、人の真の自立にとって、先ず必要とされることだと思われます。

 自分の気質やその癖にきづかぬうちは、考えや行動の習慣的な癖やパターンから抜け出ることはとても難しいものです。

そして、癖に気づかぬまま結婚すると、親と違うと思って選んだ相手でも実は慣れたパターンを選んでいたり、あらたに親のかわりに、新興宗教などに慣れたパタ−ンでひきよせられたり、今一度そこに気づいて、昇華するまで同じことの繰り返しになるものです。

そして、親からの影をひきずったまま子育てに関わり、親からうけたものを消化不良のまま、かえって反対に行き過ぎたりもして、再び次世代に伝えてしまうことになるのです。

自分と親との気質の関係性に気づき、そのマイナ−な頚木から抜け出せて、よい関係になれた時、人は本来の自分に気づくための、出発点にたつことができると私は思うのです。

これまでの自分への全ての影響というものを、考えてみて,それらをそぎおとしていってはじめて、自分自身の性格の気質の傾向性というものも、ありありとみえてくるものです。
自分にきづけば、一安心です。
しかし、そこから、又自分の心との新たな闘いがはじまると思われます。


   [愛と感謝に気づいて心からの喜びを]    

 マイナーな思いや、いやなことも全て気づくためのあらわれです。
そして″心からの喜び″は、みごと消化し対応できた時の″気づきにであった時のごほうび″です。
物事はすべて表裏一体ですから、いやだと思うことも自分の問題として、ありのままをまず受け入れてみることです。
そして又、相手の気持ちや立場にも立ってみれたり、客観的にも、又裏からも、心の内側からもとらえてみることが必要だと思います。

そして何より自分自身の気持ちをごまかさず、ありのまま、すなおに受けとめれるようになり、それをすなおに上手に出せるようになると楽になりようです。
何事も、できるだけメジャーに良いように受けとめていけるまで、ことを明らかにしていくようにすると、思いもだんだん明るくなり、すべてがきづかんがためと、感謝と愛へと変わってきます。

感謝と愛のあるところに気質の黒雲はわいてもすぐに消えていきます。
メジャーにうけとめていくことで、マイナーな思いはだんだん出なくなってきます。
明らかにみることと、感謝と愛こそ、闇を消す”光”です。
心を見つめ、心の芯にであえば、真実が分かり、魂の光にで会え、感謝と愛とに気づきます。感謝と愛こそ魂を喜びに輝かすものです。


   [病気や事故は気づきの時]  

 暗雲たちこめた心を放っておくと、魂は輝きを封じこめられて、肉体の凝りや偏りも解消されず、息苦しくなり危険信号を発します。
それらは、肉体の病気や事故となっても現れてきます。
これまでの心のあり方の偏りや気質の癖に気づかないままの、体や生活や食の不自然さが、消化不良や滞り、歪みや偏りを作り、病気や事故となってあらわれてくるのです。
ですから、病気や事故は正しい気づき、明るい方向へと気づくための有り難い感謝すべき機会といえるものだとわたしは思っています。
そして、真に気づけるかどうかは、そのとらえ方次第なのです。


   [戦うのでなく、理解を・・・]   

 病気といえば、現在年間約23万人が、4人に一人が″癌″で亡くなっています。
品物の山の病だれ、それがガンです。 物質主義につかり、物や形を求める心の欲望、かたくなさやとらわれが、体にもしこりとなり異常増殖するのです。
栄養過多でかえって、貧血になるという自己矛盾の中で血や組織が溶けていくのです。
健康人でさえ具合がわるくなる程きつい抗ガン剤やX線を何度も浴びたりする不自然な医療も続けられて、原因もわかっていないのに治療するのはまるで闇雲でしょう。

贅沢病の糖尿病も心臓や脳血管の疾患もエイズも免疫疾患も多くなりました。 
これは、自然の営みを忘れて傲慢になってしまった人類の払うべきツケかもしれません。
自分は健康だから関係ないというのでなく、全ての病気も苦しみも、同じ人間として共に苦しみ悲しみ、自分のものとすべき事柄なのです。
気づいて、心の転換ができれば、体の転換もできていくのです。
メジャーな思いは免疫力も高めてくれます。  


   [全ては一体] 

 近年、大問題になっている地球環境の汚染も同様です。
他の人の苦しみも自分のものと思う心、そこに問題解決の全てがあります。
全ての動物や草や木や魚、全ての生物、そして、目に見えない微生物、全ての有機無機の物体・・・・・この世のあらゆるものが自分とともに存在しています。
それらの皆のおかげで自分は、生かされているのです。
自分が動けば、全てが動く”共時性”の中にあります。自分の意識が変わるだけで、周りの世界も全く違って見え、相手も変わります。ご経験おありになるでしょう。


   [消化不良は苦しい] 

 ところが、地球や大地や水にまで、心や体と同様に消化しきれないものが、溜り滞りだしたのです。
自然の循環や生命の営みではとても消化しきれない不自然なものがあふれすぎてきました。
気質と同様過度は角となって害を及ぼします。そして、生命力を損ない、脅かす、不自然な存在がふえすぎました。
心や体と同様に地球にとっても消化しきれないものが、おりとなってたまり、消化不良となり、ついには生命を脅かす毒ともなって土に溜り、生物に入りこみ、体にも溜るようになってきているのです。


   [魂を閉じ込めるもの]  

 交通戦争もそうです。 又受験戦争こそ、柔らかい青年の心の魂の輝きをおさえこめ実のない知識の壁でとりかこんでしまっているかのようです。
表面的な知識の記憶がほとんどの、机上の理論の狭い枠の石頭を作りだしているようです。
自分の内なる心や人間として大切な実体験や自然からの宇宙の摂理などを学ぶどころか、表層の科学的知識だけが勉強のごとき錯覚におちいらされています。
助けあいや分かちあうことを学ぶどころか、競いあい、落としあい、責めあう心を増長させているようです。
スポーツ・スクリーン・セックス・スピード・スリル・サスペンスの″6S″。
ファシズム・ファミコン・ファーストフードの″3F″、これらの世の人工的な不自然で、衝動にまかせた欲やはかない虚像に足をすくわれてしまってはいないでしょうか。

  
   [光を信じて]     

 心や体がどんな災厄や試練にあおうとも、わたしは、自分の内なる魂の輝きを信じたいと思っています。
そして、みんなも同じく輝く魂をもっていると私は信じようと思います。
私は再び瞑想をはじめました。すると内なる世界で又、サンサンと降る光に出あっています。
先月号の一面にもかいたように、宇宙は光のエネルギーから作られている、と私は信じています。
これは、科学的にもまもなく分かってくるのではないでしょうか。

全ての物質も生命も全てが光の現れです。大宇宙は見えない光にみちあふれています。
ですから、いついかなる場合でも光のなかに戻って行く準備をしておきたいとわたしは思っています。
心を清澄にし、自分の内なる魂の、真実の光に出えば、全てが有り難く、恐怖も不安もなくなるように思われます。

死とても、輝く生命である魂が場所と形を変えるだけのことのように私はかんじています。

そして、たとえ死ななくとも今の世も、実は、求めよ、さらば与えられんの素晴らしい世界だとわたしはかんじています。

  
   [信じることは人間の基本]    

 その人にとって理解できないことを信じているといったら、すぐ宗教人だと見て、一般的でないとして区別しようとする人がいます。
でも、わたしのいうことは、いわゆる宗教ではないんじゃないでしょうか。
わたしだけの感覚ですし、頭で作ったり、社会的な関わり様もなく、きまった教条や盲信などでなく、純粋に冷静に客観的な自分自身との対話かと思うんです。
各人が,自分自身の心の底ふかくに下りて,尋ねてみられてはいかがと、わたしの感じ方を申しあげているだけです。

そして又、その人にとって理解できないことを信じてると言うと、宗教だと軽蔑する人がいますが、その人の意識には、科学への信仰があるのかもしれませんね。

その人は人間であること、自分が自分で居ることを信じていないのでしょうか。
宇宙が生まれ、生命がうまれることも今の科学ではわかっていません。
私たちは科学という教育をうけて、自分で実験をしたわけでもないのに科学という名目だけで信じこんでいるのではありませんか。
例えば、今の病院は技術的にはすぐれていても、それを使う手や判断が未熟なことが多いと私には思えるのですが、病院を信じて、喜んで実験台になっていらっしゃる方々も大勢いらっしゃいますし、風邪をひいて、病院にいき、解熱剤や抗生物質を飲んで安心する方も、病院や薬を信じておられるのでしょう。
私はたまさか風邪の時は自分の体を信じて体を休めます。そして、これまでの反省もし、バランスを取り戻して、さらに調子がよくなります。
皆それぞれの信じるところで方法で生きているのでしょうね。


   [何を信じているか]

 それとも、自分の目でみえること、五感で感じることつまり感覚からの認識しか信じれないでしょうか。
では、自分の心のなかのことは、見えないからって信じれないことでしょうか。
でも心も気持ちや考えとして、言葉にして信じて話しているのではありませんか。
見えないけど、言葉になったから、あることになって、見えるかのように、悩み苦しんだりしていますね。
では、その考えはどこから湧いてくるのでしょうか。

それは、ほとんど1%のみえる世界と99%のみえない無意識の世界から湧いてくると私には思えます。
みえない世界をどこまで信じているかによってその比率は人によって大きく変わるでしょう。

ですから言葉にできない言葉、まだ言葉にできない感覚も沢山あると思います。
体はわかっていても、自分の思考ではまだつかめていない感覚や言葉がごまんとあると思われます。
無意識の領域は、知識や考えではとてもつかめない領域だと思います。
わたしは思考などごくごく一部ですし、自分だけのちっぽけな枠の中にしかすぎないと思っています。
考えでつかめない部分は体や感覚の方がよくしっている場合が多いように私は思っています。
これは、動物たちの本能ともいえるものでもあり、人の60兆の細胞や血液には、
その一個一個に意識も考えももっているように私は感じています。
勿論動物的欲望もわかせますが、しかし体の方が賢く、自然を感じていると思います。

というのは、思考は自ら枠づけをしてしまっているように思われるところです。
枠をはずしてしまえば、もっともっと自由で幸せになれます。

その枠をはずすには、体の感覚に素直に問いかけることからはじまると思います。
そんなとき重い頭、知識でいっぱいの頭は邪魔になります。
知識も、腑に落ちていないうちは借り物にすぎないし、みについていないものは、言葉遊びや妄想にしかならないと私は,思っています。    

  
   [見えなくても信じていることが沢山あるはず] 

 自分の胃や腸や心臓をみたことがありますか。他人のも見たこともないのにあると信じていますね。
現実に末期ガンの人でもなおっている人がいるじゃないですか。
生きている自分があり、考えている自分がいますね。どうして、生きて考えておれるのでしょう。
何故生まれて来れたのでしょうか。 何のおかげでこうして生かされているのでしょう。
私のなすべき役割はなんでしょう。 あなたのなすべき役割はなんでしょう。
・・・・自分の考えれる世界というものを狭い枠に閉じ込めてしまってはいないでしょうか。
自分の気質のエゴに固まり、親の枠、受けた教育の監獄に閉じ込められてはいないでしょうか。
  

   [光がみえていますか]

 光を見ないと信じれないのですか。では、目の前の光がみえていますか。
無色透明でみえないはずです。でも、光があることは十分にご存じですね。それと同じだと思いますね。
目にみえなくても信じれる世界があると、わたしは感じているのです。
広い広い世界は現に存在していると、わたしは思っています。
あなたの中にも大なる宇宙が真に存在していると私はかんじるのです。
肉体の五感だけや、狭い考えの中だけでとらえれる世界は、ほんの微々たる世界と思われます。
たとえ今のあなたに見えなくても、広い世界は存在しているのです。
そこが理解できれば、信じれるし、又感じれるようにもなってくるのではないでしょうか。


   [心の世界に生きてみませんか]  

 頭で考えても、目に見えない世界は感じとれないと思います。
みえない世界はあなた自身の中にあると思います。
自信を持ってください。皆、一人一人が見えない大きな心、内なる大宇宙を持っている存在です。

深く自分に聞けば、自分自身で気づけると思うのです。
皆が自分の内に輝ける魂を持っている存在だとわたしはかんじています。
現代の聖者といわれるサティア・サイババもいっています。
「私と皆との違いは、私は自分が神であることに気づいているが、皆さんはそのことに気づいていないだけだ。」
その通りだとわたしも思います。
イエスもそうだと私は,思っています。しかし、あの時代は救世主を必要としていました。
しかし、今私たちはじつは、自分自身が神であることに気づけるのです。
信じれば、自分の内なる魂にであえると思うのです。

  
   [枠をはずそう]      

 自分の持っている知識や思考の枠をはずしてみませんか。
心の枠やとらわれもはずしてみませんか。
もっと自分の見えない世界を信じて、感じて、楽しんでみませんか。
人から教わったり、頂いたりだけでない、自分を信じて静かに自分の内に聞いてみれば、そこにあるのです。
青い鳥は自分の内にあるのです。自分の心にあるのです。
あなたは全てを持っているのです。
自分の内なる輝く魂に出会って、心楽しく、喜びあいましょう。
自分の感じたこと、体験したこと、そこから、思ったこと、それこそが自分にとっての真実であり本物ではないでしょうか。
もっと体験してみましょう。 明るい光にふれてみませんか。
心の楽しい働き、生き生きした動きに気づいてみませんか。

心を知るには、入口として″様々な心″のあることを知れば、分かりやすいです。
それには先ずいろんな″気質″を知ることです。
″気質″を知ることは、人間の心の理解に大変役立ち、大きな目安にもなり、
心の許容量も一転して広がり、人の心が理解できるようになってきます。
そして、その行動もわかり、何事にも腹がたたなくなり、許せるようにもなってきます。
もちろん、人には感情もあるし、心動かされれば、気質も出ます。
でもその反応が何故かが理解できると、それに囚われることも少なくなり、気楽になってきます。

   
   [宗教ではありません]  

 私は宗教という団体や考えの狭い枠をいっているのじゃありません。
枠があると、枠の外へのいらぬ恐怖心やさい疑心や不安が生まれます。
恐怖からのがれるためには、敵とみなして、やっつけようとします。
かつて、宗教の名の下に戦争が沢山おきていますね、子供でもおかしいと分かります。
私がいっているのは、みえない心、内なる宇宙を持つ人間として、
あたりまえの知識や心のあり方を問いかけているだけです


   [見えないものをみえるものに] 

 人を信じるとは、人の言とかきます。
自分の心と体の訴えを素直に言葉で表してみてください。
静かに自分の心に聞いてみてください。そして話してみ、書いてみてください。
そうすることで、見えない世界が言葉で現わされて、だんだん見える世界になってきているのです。
自分の心をみつめることで、見えない世界が、みえるように、感じるようになってきます。
他に求めることはいりません。お金を費やすこともいりません。
自分の心のなかだけの作業ですから・・・


   [自分を未来を信じる] 

 ″気がつけば″今のこの現実の中でも本当に幸せに暮らせると私は思っています。
未来は輝いています。そして、現実の地球が、そこに住む困っている人々が救われるには、一人一人がそこに気づいて、認識をし、正しい知識を持ち、自信と自覚をもって良い方向へ動き、働いてゆけることが必要とされているだろうと、わたしは思っています。

まさに、私たちは、今、見えない心をありありと見て、感じて、修行に励むべき時がきていると思うのです。
心の動きをありのままにみて、良い方向を目指してゆくことが、魂の修行であり、一人一人の字核が、地球を人類を救うことにつながると、わたしは思っています。
肉体や心はこの世にあっても、魂は光であり、大宇宙そのものだと私は信じています。
つねに大いなる意志と愛と感謝を感じながら、自ら、心を磨いていきませんか。  

  
   [21世紀は愛と感謝の世界]

 内なる魂の光に気づくと、自分の心もよく見透せるようになるようです。
見えない世界から,見える世界はお見透しのように思われます。
湧いた黒雲もはっきりとみえてきます。
そして又、心が輝きでみたされた喜びの質のすばらしさも分かってきます。
人は皆、本当の喜びをしれば、楽しく充実した心地よい方が勿論好きになるでしょう。
肉体とともに、心もいつも安らぎと感謝と至福の喜びの中に居るようなれることは幸せです。
魂を輝かせ、光の中で、皆とともに響きあい、悲しみも苦しみも皆とともに分かちあっていきましょう。
心がいつも魂の輝きの中にあれば、たとえ肉体は滅びても、意識は光となって、宇宙と融けあい、いわば平安と至福の境地に至るといえるのかもしれません。

これはいわゆる宗教くさいことかもしれません。
しかし、私は、これまで一切、既成の宗教とかかわったことはありません。
本もお経もほとんど読めてません。
しかし先に述べましたたように、現代では、宗教かそうでないかの枠にとらわれることも一切いらないと、思われます。
ただ自分を信じ、自分に気づけばいいのです。
いわば、自分の宗教を自分でつくるようなものです。
他の方のオウムになったり、知識を競うことではないのです。

 
   [見えない意識のレベル]

 私は、人間としてあたりまえの感覚、皆が自分の内に持っている見えない世界のことを言っているにすぎないのです。
これはいわば”見えない世界の科学”です。
現代の科学を超えた″見えない意識の科学″です。
心を持つ人間として、あたりまえの心について話しているにすぎません。
一人一人が自分自身の内に持っている魂の輝きに、内なる大宇宙の意志と働きを自分の内に感じていけるのです。
すると、内も外も実は表裏一体であることにきづかされるでしょう。
自分以外の全ても同様であり、全てが輝く魂を持つ一体のものであることを私は,信じています。

  
   [心の芯に気づく]

 表面の物や狭い思いや体や欲にとらわれ、左右されているうちは、本当の喜びは感じられないと思われます。
一時の喜びの後には、空しさがあるのではないでしょうか。
それは、心の芯にであっていないからです。
芯である魂にであうと心は輝いて喜びにみたされ、充実し″み″のある心、″美しい心″″真実味″のある心がかんじられるでしょう。
何事も芯が大切です。芯のないところに真珠もできません。心にも″真″がなければ″まぬけ″になります。

  
    [21世紀に必要とされる人] 

 心の″信、芯、真、神″にきづいて、体から心にわきあがる黒雲を掃除する必要に気づき実行できる人。
心の美しい働きを知り、真実の喜びの中で立ち働くことができる人。
21世紀には、そういう人たちが必要とされていると私は思っています。  
 心をみつめて、晴れやかにし、魂への良い知識を増していきましょう。
良い知識、明るい知識は力になります。
そしてまず自分が心底幸せになれてこそ、周囲も幸せになれるよう働けるのではないでしょうか。
自分も周囲もしあわせになれば、自分の未来も開けてくるでしょう。
そして、一人でも多くの人が自分自身に気づいていくことで、
人類の未来も、地球の未来も、宇宙の未来も明るく良いほうへと変わっていけると思うのです。
日々新たに、日一日と進歩向上していけるのです。
特に21世紀は女性の意識が目覚める時です。
男性意識の行き過ぎが科学文明の弊害をうみだしました。
これからは、敵対意識や統一意識や上下意識や物質の意識から抜け出す世界がひらけていくでしょう。
新たに命を育み、守り育てる、それぞれを尊重し、違っていてあたりまえの、違いを楽しむ、自然とともにある世界。
みなが、助け合い、生かしあう意識が開ける世界となると私は思っています。  


   [21世紀は輝いています]

 21世紀こそ、魂の光に気づいた人たちが、喜び出会える世界になるとわたしは思っています。
21世紀に喜んで立ち働ける自分になれるかどうか。
今、現在の私たち一人一人の心のあり方、意識の持っていき方が、問われているのです。

勿論、自分の為だけでなく、子や孫のためにも、私たちの意識で、21世紀を素晴らしい世界につくりあげていきたいものです。
それができるのは、今、大人であり、親である私達だと思うのです。

皆とともに学びあい、自ら変革しながら、良い響きあいをしてまいりましょう。


ゆきちゃんの世界 つれづれなるまま


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