ゆきちゃんの世界
  * * * 精神世界 * * *
光と出会う

“見えない世界を感じられるようになりたい・・・”
そんな思いを当時の私は胸に抱き続けていました。

あの頃は仕事や家事であわただしく過ごす毎日でしたが、
3人目の子が生まれたことをキッカケに、
大学の講師を止め子育てに専念することにしました。

その後縁あって有名な瞑想指導家 山田孝夫さんが、
アメリカから帰られて初の屋久島での合宿に参加させていただき、
そのなかで瞑想中にありありといろんなものを見、そして感じるという体験をしました。


チベットのヒマラヤの中腹にある書斎での守護霊たちとの対話、
そこから守護霊とともに飛び立ち、雲の間から世界中を見下しながら巡ったこと、
守護霊とともに地球を飛び出し宇宙空間に浮かぶ青い小さな地球を足もとに見ていたこと。

その後関西に戻って一人で瞑想している時も、さまざまな素晴らしい体験をしました。

しかしある時地獄の釜の蓋を開けるようなまさに凄まじいばかりの恐怖の体験をし、
その時はまさに気も狂わんばかりの思いでした

幼子3人をかかえ、母親の気が狂うわけにはいかないと思い、
以来瞑想など一切を捨て、ひたすら子育てに取り組み、畑を耕していました。
ちょうどその頃に “光” と出会ったのです。
それは今から17年前のことです。


私はそれ以前にも子供を宿した時、横になって闇の中で目を見開いていると、
はるか虚空の遠い宇宙から私のお腹に向かって
天空から光のエネルギ−の矢が2本飛んでくるという体験をしていました。

ひとつは閃光を発した直径40cmほどの小爆発、
もうひとつは柔らく美しい霧のような爆発でした。

このお腹の中で観ることができた2種類の光の小爆発は、
陰と陽、2極の光からもたらされる生命そのものであるということを、
後になって知ることができました。 

そしてその “光の子” が3歳の頃、お昼前のゆったりとした時間に、
まさに “至福の光” と出会ったのです。


それはクリシュナムルティの瞑想録を読んでいる時です。
正座して本を読んでいた目をふと上げ、空間をみつめた時、
私の気持ちはただただ慈愛と感謝と幸せに満ちあふれていました。

すると突然体の中心からエネルギ−がわき上がり、尾底骨から背骨を通って、
まるで竜が昇るがごとくその炎のような勢いは頭頂へと突き上がり、
私という意識が空中に飛び出してしまったのです。

頭頂から離脱したこの “私の意識” は、
直径35cmくらいの無色透明の輪となって自分の後頭部を見下ろしながら空中にありました。
あれよあれよと驚いている私を尻目に、私の意識の輪は空中高く舞い上がり、
部屋の高い天井の隅までいくと、次にはするすると凝縮をはじめたのです。

「あっ、私が無くなる、私が無くなってしまう・・・」そう思った瞬間、
まさに私はひとつの点となり、無となり、
それはきらめく大閃光を放って 大爆発!!! したのです。 

そして全方位に放たれたその閃光は、
見えるもの見えないものすべてのものにゆらゆらと入り込んでいきました。

その様子は肉体の目からもはっきりと見えました。
葉っぱの一枚々に、瓦の一枚々、窓枠や、山々にまで ・・・ 、
見えるものすべてに私であるその閃光はゆらめきとなって入り込み、
"私"は見えるもの見えないものすべてになったのです。


“私はすべてになった”、つまり私が無くなったとたん、私はすべてになってしまいました。
そこに自意識というものは片鱗も無く、私が全世界、大宇宙と融合してしまったのです。

その時の意識はすべてと通じ合い、すべてを見通せる
まさに神の意識とでもいえるような、全知全能のものに感じられました。


すべてが私 私がすべてになったのです。 


そして気がつくと、私という意識は我が身に戻っており、
そこには類まれなる唯一無比の、
たとえようのないほどの至福の大歓喜が満ちあふれていたのです。
まさに体も心も至福の歓喜にうち震え、
体中の60兆の細胞の一つ一つのすべてが、至福と歓喜を謳歌していました。

そしてその時分かったのです。
ああ!この『大歓喜』こそがまさに神の意識なんだと。

この世の見えるもの見えないもの、
すべてが神そのものであり、
神の意識がこの身に感じられる時、
それがまさに至福の大歓喜に他ならないと ・・・ 。

そして神の意識はすべての私たちの心と意識の根源にあり、
それがこの身にあり、生命をいただいているということは、
まさに神の意識の大歓喜の具現化であるということが私には “分かった” のです。

その神の意識とは、あふれてくる膨大な光のエネルギーであり、
心と体にとって最高の喜びなのです。
その至福の境地は3日間続き、
つねに幸せに充たされ天にも昇る幸福感に打ち震える夢見心地の中にいました。

それ以来いつでもその至福の歓喜が体と心を満たしてくれるようになり、
全く何の心配も不安もなくなりました。
いつでも思いのままに感謝と至福の喜びがあふれ出てくるのです。


後になって、これはめったにない神秘体験だということを知りました。
そしてその道の好きな方に、それは幽体離脱だと教えていただきました。
たしかに私の意識は肉体から離れていましたが、
はたしてそれが一般的 (?) な幽体離脱というものであったかどうか ・・・、
それは私には分かりません。

その最初に離脱した私という意識の丸い輪、
それは昔から天使や聖人の頭上にある輪と同様なものだと思われるのです。

その輪は、じつはそのような “全宇宙と融合した神の意識” に近いものであり、
すべてにつながり、響きあい呼応している全意識であるということ、
その輪にあるときは、世界のすべてが見通せ、
世界の隅々までよく見えてくるように思われます。
見えない心が感じられ、遠く離れた事柄さえ目の当たりに感じられるのです。


この世界の生命はじつは意識下ではすべてつながっており、
私たちがこの肉体に宿ってこの世にいるということは、
肉体をもって今世の使命をはたせる、
素晴らしいチャンスをいただいているということではないのでしょうか。

魂の宿る肉体をもてるということは素晴らしい喜びです。
ですから、人間は我が身をいかに活かすべく立ち働くかを追求すべきなのです。
働くということは、ハタ(傍)にラク(楽)をしていただくために我が身を活かすということなのです。

肉体が滅した後の世界、この肉体のある次元のむこうには
どの様な世界が広がっているのでしょうか。
それを感じるには、意識を純粋に、そして無に近づけていくことでしょう。

つまり私たちの本質は、魂そのものともいえる純粋意識であること、
そしてその意識をもって肉体から離脱した時には、
すべてと融合一体となれる超自我、神の意識になれるのです。

未知なる肉体のない世界、
そこには個としての魂の記憶やいわゆるカルマは残っているのでしょうか。
それは今世で神の意識に近づいた働きや思いができるか否かにかかっているでしょう。



ですから、死して至福の世界に行くには、
この世を闇雲に駆け回って与えられた時間・肉体を浪費するのでなく、
本来の魂の存在に立ち帰って、己の心の内をしっかりと見つめてから動くことが大切です。

つねに神の意識とともにある至福の喜びを感じ、
一人一人が今世の自分を活かせる道を真剣に問うていかねばなりません。

神は、宇宙は、いつでもどこでもわたしたちとともにあるのです。

そして、わたしたちの内なる意識が外と呼応しあって
わたしたちのこの世界を創り出しているのです。

わたしたちは、今を生かす、魂を生かす道を踏み外さないよう、
神の意識をいつも友として、

一人一人が自分のうちに問い、自分を活かせる生き方を真剣に歩むことで、
自らの内にある光輝く世界を、外界に作り出してゆけるのです。


ひとつ前へ ゆきちゃんの世界 精神世界 次へ


Copyright 2006 Spiritual Peace Musician Ikebe Yukie , All right reserved.